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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話594 伊藤書店、石母田正『中世的世界の形成』、小山弘健他『日本産業機構研究』

日本評論社や企画院絡みの出版物にふれてきたが、やはり両者の近傍にあったと思われる出版社についても取り上げておきたい。それは伊藤書店である。

この版元を知ったのは石母田正の最初の著作『中世的世界の形成』の初版が、昭和二十一年に伊藤書店から刊行されたという事実からだった。その後同書は三十二年に東大出版会から改版が出され、六十年には本文だけが同タイトルで岩波文庫収録されるに至っている。
(伊藤書店版) 中世的世界の形成岩波文庫版)

このような出版推移は岩波文庫版の石井進の「解説」でも述べられているけれど、ここでもトレースしてみる。石井がいう「日本歴史学の最高傑作の一つである」、この石母田の『中世的世界の形成』は、日本評論社の「日本歴史学大系」の一冊として企画された。この叢書は清水三男『日本中世の村落』、古島敏雄『近世日本農業の構造』、石井孝『幕末貿易史の研究』、信夫清三郎『近代日本産業史序説』を刊行しているが、石母田の著作もその一冊として準備されていた。なお付け加えておけば、清水の『日本中世の村落』も近年岩波文庫化されているが、ただこの叢書については美作太郎の『戦前戦中を歩む』の中で言及されていない。
日本中世の村落岩波文庫

『中世的世界の形成』は「初版序」が「昭和十九年十月」の日付で記されているように、この十月のほぼ一ヵ月で書き下ろされたのだが、空襲による印刷所の焼失のために、日本評論社からの刊行が実現せず、敗戦後の二十一年六月に伊藤書店から出版されることになったのである。どのようにして日本評論社から伊藤書店へと移ったのかは詳らかでないし、伊藤書店そのものも増補四版を刊行後の二十五年に倒産してしまった。絶版となった同書が新たな改版として、東大出版会から出版されたことは前述したばかりだ。

伊藤書店の伊藤長夫は『出版文化人物事典』日外アソシエーツ)に立項されている。それによれば、明治三十五年長野生まれで、没年不明。大正五年育生社に入社し、十三年に独立。名古屋で三益社創業、数学関係書を出版、健文社と提携したことをきっかけとして、三益社も合併吸収され、その役員となるが、昭和十四年に伊藤書店を設立し、文芸書や通俗的な経済書を出版とあるだけで、プロフィルも出版物もはっきりしていない。それはこの立項が伊藤書店の出版物を見ていないことに起因しているのだろう。それでもここから推測するに、三益社は学参系出版社で、健文社も語学系版元であることから、合併に及んだのではないだろうか。そこで伊藤は学参系と異なる社会科学書などの執筆者人脈に遭遇し、新たに伊藤書店を興すことになったと思われる。
出版文化人物事典

その伊藤書店の社会科学書を一冊だけ入手していて、それは昭和十八年刊行の小山弘健、上林貞治郎、北原道貫を著者とする『日本産業機構研究』である。菊判上製五〇〇ページ、手元にあるのは裸本だが、おそらく箱入だと思われる。「日本経済の歴史的全成長過程を統一的に、且つその産業機構的組成において把握する」ことを目的とする同書の定価五円、初版三〇〇〇部は戦時下の出版としても、小出版社として高定価だし、部数も多いと見なせよう。だがそこに戦時下特有の生産、流通、販売事情が絡んでいると考えるしかない。

著者の一人の小山は『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ)に一ページ以上にわたって立項されているように、戦前のマルクス主義軍事論の先駆的究明に功績があり、さらに戦後の日本社会運動史、運動論などの諸研究と多岐にわたっている。昭和四十年代には小山の『軍事思想の研究』(新泉社)といった著作が出されていたことを思い出す。

近代日本社会運動史人物大事典

それだけでなく、『同事典』の小山の立項には戸坂潤の勧めで唯物論研究会に入り、『唯物論研究』に本郷弘作名で軍事技術論を書き、『近代兵学『近代軍事技術史』(いずれも三笠書房)を刊行とある。そして昭和十八年に伊藤書店に入り、本間唯一とともに編集に従事し、野呂栄太郎、大塚金之助、平野義太郎の『日本資本主義発達史講座』岩波書店)の継続をめざし、上林、北原と『日本産業研究』を出版している。これは共著、書名からして、先に挙げた『日本産業機構研究』の誤記であろう。

伊藤書店で小山とともに編集に携わった本間唯一も、『同事典』で立項されている。本間は大谷大学で戸坂の講義を聞いて傾倒し、唯物論研究会に入り、『唯物論研究』の編集部長を務める。昭和十二年には『文芸学』(三笠書房)を刊行し、十五年から伊藤書店に勤務し、「日本学術論叢」「翻訳論叢」などの発刊に尽力し、戸坂を同書店顧問格として迎えた。戦後になって伊藤書店から『人民評論』を創刊し、また戸坂の生前にまとめられていた『戸坂潤選集』全八巻を編集、出版したとされる。

また先の『日本産業機構研究』の奥付裏の出版広告には藤田敬三編『世界産業発達史研究』と岩崎松義、細野孝一編『日本戦時経済研究』の二冊が掲載されている。前者の藤田、論文を寄せている上林、岡本博之は大阪商科大学とあり、同じく後者の寄稿者の細野、岩武照彦、豊嶋清の肩書は企画院調査官となっている。

ここまでたどってきて、伊藤長夫のプロフィルは明確に浮かんでこないけれど、この時代に神田区西神田二ノ三にあった伊藤書店が、戸坂潤たちの唯物論研究会に寄り添い、そのメンバーたちを編集者とすることによって出版活動を営んできたことが朧気ながらわかってくる。その延長線上に石母田の『中世的世界の形成』が刊行されたことも。それにおそらく伊藤書店の倒産も、そのような企画と関係しているのであろう。

なお『戸坂潤全集』勁草書房)を確認すると、小山弘健が「月報」4に「唯研と伊藤書店の時代」を寄せ、「伊藤書店が旧唯研派の拠点のよう」だったと書いていた。以前に読んでいたが、すっかり忘れていたことになる。
戸坂潤全集

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