出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話599 小山書店版『チャタレイ夫人の恋人』と「チャタレイ裁判」

前々回、『チャタレイ夫人の恋人』の健文社版は未見だと既述したけれど、戦後の小山書店版は入手している。確認してみると、これは『ロレンス選集』第一第二巻として、昭和二十五年四、五月に上下巻で刊行されたもので、このチャタレイ夫人の恋人の翻訳出版が「チャタレイ裁判」を引き起こすことになったのである。この小山書店版を、健文社のロレンス出版に言及するために再読したのだが、伊藤の理解と配慮あふれた名訳、ロレンスの『恋愛論』の小説化に他ならない『チャタレイ夫人の恋人』に感動すらも覚えたので、「チャタレイ裁判」にもふれておきたい。
(『チャタレイ夫人の恋人』、小山書店版) 

そこに至る経緯を小山書店の側から見てみる。小山久二郎は「小山書店私史」と銘打った『ひとつの時代』(六興出版、昭和五十七年)において、『チャタレイ夫人の恋人』の出版を決意した事情について述べている。それによれば、戦後のエロ・グロ出版物の氾濫する中で、小山としては自粛や強権によるのではなく、性に関する正しい知識、思想・哲学を普及させることが必要だと思われた。すると編集部の高村昭がロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』を挙げ、戦前に伊藤整訳が刊行されているが、戦後の出版も考えるべきではないかとの意見が出された。そこで伊藤整も小山書店を訪れ、ロレンスが作家、思想家、哲学者として性の問題に取り組んだことを詳しく伝えたのである。それによって、小山はロレンスが求めていた性に関する思想家だと確信し、次のような結論に至る。
(『ひとつの時代』)

 『チャタレイ夫人の恋人』という作品は、ロレンスの思想を綜合結集したともいうべき作品であり、彼自身も、十二歳になった少年少女にも読んで貰いたいというほどの抱負をもった作品であるが、作品中には性描写をした箇所が多くあるため完本としてはイタリアとフランスで出版されただけで、イギリスではロレンス自身に依って肉体描写を省いたものが出ているというような数奇な運命を辿った書であることも初めて知った。私たちは異口同音にロレンス選集を発行しようということになった。勿論『チャタレイ夫人の恋人』の他のものもロレンスの原本に忠実に従い、完訳すべきだという意見に一致した。

そして版権保持者のロレンス夫人に承諾許可を得るために、伊藤が小山の名前で手紙を書いた。当時まだ翻訳仲介機関もなかったし、彼女の住所も不明だったので、英国文芸家協会気付で出したのである。昭和二十三年のことだった。それは「一種の興奮に似た感情」を伴っていたし、「果してこの手紙が届くものかどうか、また我々にどのような運命が待ちうけているのか、知る由もなかった」のだ。

このような翻訳にまつわる版権問題は戦後の時代状況を伝えてくれる。これはまったく簡略に記しておくが、著作権の国際的保護を図る目的で締結されたベルヌ条約において、戦前の日本は翻訳権十年留保やアメリカとの二国間条約による翻訳自由協定などによって、版権交渉も印税支払いも除外され、翻訳出版できたのであり、それらが必要になったのは戦後を迎えてのことだった。ただそうはいっても、これらの問題も錯綜としているので、必要とあれば、宮田昇『翻訳権の戦後史』みすず書房)を参照してほしい。
翻訳権の戦後史

それはさておき、翌年の秋になって、ロレンス夫人からの返事がアメリカのニューメキシコから届いた。それには日本からの翻訳の申し出に厚く感謝し、ロレンスの著書が日本で読まれることを熱望するので、代理人のロンドンの弁護士と交渉してほしいと書かれていた。そして昭和二十五年に正式な契約書が送られ、締結に至ったのである。その契約書は小山の同書に掲載されている。

しかしこれも当時の事情だが、翻訳出版はGHQ文化局への届け出を必要とする規則になっていて、契約が成立しても、独断で刊行を決めるわけにはいかなかった。そこに現れたのは『ロレンス選集』の『息子と恋人』の訳者になっていた吉田健一で、彼がイギリス大使館に根回ししてくれて、前年の暮れに翻訳が完成していた『チャタレイ夫人の恋人』の刊行にこぎつけることができたのである。だがこれが裁判で問題になるとは誰も予想だにしていなかった。

そして四月に発売されると、当初はあまり反響もなかったが、新聞に広告や紹介、書評などが出始めると、日を追う毎に「盛り上がるように人気が沸騰して行った」。そして六月末には二十万部を超える売れ行きに達したのだった。

ところがである。七月になって、小山書店に「大勢の警官が物々しいいでたちで、しかも大型のトラック用意で、やって来た」。「家中を引っかき廻して」しかし押収できたのは七、八十冊の在庫本と帳簿だけだった。だが警視庁は暁印刷所も捜索し、紙型を押収していたし、小山へも出頭通達も出されてきたのである。そして起訴され、二十六年五月から「チャタレイ裁判」に「責任ある出版者の責任において、ロレンスを、伊藤整を、猥褻作家ときめつけられる汚名をそそぐため」に、それを通じて「我国の言論出版の自由を護る」ことを目的として臨んだのである。それは『ひとつの時代』の「『チャタレイ裁判』を出版者の立場から」と「『チャタレイ裁判』第一回公判法廷にて」「その法廷を十一番教室と呼ぶようになった」という三つの章に詳述されている。

長きにわたる裁判の判決は昭和二十七年一月に出され、その間に風評による書店からの大量返品によって、小山書店は倒産に追いやられ、小山自身も罰金二十五万円の有罪判決を受けることになる。後に小山は「その犠牲はあまりに大きかった」し、「どうにもならない社会の壁にぶつかった」けれど、「やはり闘わなくては、真の自由はやって来ない」と結んでいる。

小山のいう「どうにもならない社会の壁にぶつかった」のは伊藤整も同様で、それは『裁判』の中に、小山以上に克明に表出しているといえるのだが、それ以上に異彩を放っているのは、原文を引用して展開される「『チャタレイ夫人の恋人』の性描写の特質」の部分であり、これは法律に抗する文学の闘いに他ならないことを特筆しておくべきだろう。
裁判

また『裁判』を、これも再読してあらためて認識したのは、その「解説」で、弁護人として出廷した中島健蔵がふれているように、裁判が始まった昭和二十六年五月はまだ占領下にあり、「チャタレイ裁判」こそは戦後処理の最中における新旧思想の矛盾の露出、官僚主義の再びの台頭を背景とする言語表現の自由のための闘いでもあった。これも中島が引用している大宅壮一筑摩書房版『裁判』の帯に寄せた「本書は七年間の占領下における最も大きな文化闘争のモニュメントとして、永久に保存されるべきものである」との一文はそれを裏づけていよう。

そうした事実を補足するように、『日本近代文学大事典』における「チャタレイ裁判」の長い立項で、曽根博義が指摘しているところによれば、GHQの要請で、映画の「自主規制」のための映倫が昭和二十四年に生まれたように、翌年には出版物に対しても同様の措置が必要だと判断し、二十五年に警視庁は検察庁と協力し、出版物風紀委員会を発足させている。『チャタレイ夫人の恋人』が摘発押収されたのはその一週間後であった。この時代から「サド裁判」「四畳半裁判」へと至る流れはまったく変わっておらず、現在の出版物への猥褻容疑対応へと引き継がれていると見なすべきだろう。
日本近代文学大事典

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら