出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話601 木星社書院と瀬沼茂樹『現代文学』

実は最近になって、古本屋の店頭で福田久道の木星社書院の単行本を見つけたので、前回の『唯物論研究』の発行とも関連しているはずだし、ここで書いておこう。それは瀬沼茂樹の『現代文学』で、昭和八年一月の出版である。『唯物論研究』創刊号が七年十一月の発刊だから、ほぼ同時期の刊行だと見なしていいだろう。

瀬沼の『現代文学』は菊判上製箱入、二五二ページ、での「序」は「純文学の危機! これこそ、解体期に入つた現代ブルヂョア文学が自己の宿命を表白する端的な言葉である」と書き出されている。その危機はブルヂョア文学からプロレタリア文学が生まれた時に初めて表出し、ブルジョア大衆文学が近代文学の特権的位置を打破した時に決定的なものになった。その危機はそれ自体において、新感覚派を生み出し、その方向に発展し、形式主義文学、新興芸術派、新社会派、身辺的・心理的小説の復帰へと向かった。そして瀬沼は「かくの如き現代文学の究明こそは本書の課題である」と記し、これらを個別的に論じたのが『現代文学』という一書なのである。

これは『日本近代文学大事典』の瀬沼の立項にも「解題」があり、「昭和初期のいわゆるモダーニズム文学を、歴史的体系的に論析した最初の業績として、昭和文学史論上の価値は高く」と評価されている。これは昭和三十一年に補訂され、『昭和の文学』として河出文庫から出され、また昭和五十一年に冬樹社から同時代の批評を増補し、『完本・昭和の文学』として刊行に至っている。そこには「河出版『昭和の文学』あとがき」も収録され、木星社書院の初版は「一千部ばかり」だったと述べられ、福田への言及もあり、『唯物論研究』とも関連するので、その部分を引いてみる。
日本近代文学大事典 (『完本・昭和の文学』)

 福田は、美術などの出版社であり、増田五良の『文学界記伝』とか、星野天知の『黙歩七十年』とかを出した聖文閣もその後身であった。戦後文学老年に帰って、小説など書いていたが、先年亡くなった。わたしの本については殆んど印税なども払ってくれず、処女出版の幸先は必ずしもよくなかったわけだが、この例は当時あまり珍しいことではなかった。ところで、この福田久道にすすめて、私の最初の論文集を出してくれたのは宍戸儀一であった。彼はこの本の再刊を祝ってくれていたが、発行を待たず、つい先日、八月十九日に思いもかけず急逝してしまった。
(中略)宍戸は、福田久道のところで、当時流行のクオタリ『批評』を創刊(昭和七・一一、今とり出してみると、第二号は八年六月で、発行所は隆章閣となっている。福田久道は政弘と改名している)したり、明治文学講座六巻(昭和七年・一二、第二回は八・三、これで廃刊)を企画編集したりしていた。そんなことから、当時意気軒昂としていたわたしの処女評論集の発刊を思い立ってくれたのであろう。宍戸の友情のおかげで、菊判の立派な本となって出た。

ここでは問わず語りのようにして、『唯物論研究』の発行所が木星社から隆章閣へと移った理由が語られている。おそらく木星社書院は第五号を出した昭和八年三月頃に行き詰まり、社名を隆章閣、福田も名前を政弘と変え、『批評』第二冊を含め、『唯物論研究』も第六、七号と継続して出したが、隆章閣も立ちいかなくなり、第八号からは唯物論研究会が発行と発売を兼ねるしかなかったと思われる。しかしそれでも瀬沼の先の証言によれば、昭和十年代に入ると、福田は三たびというべきか、聖文閣という出版社を立ち上げていた。星野天知の『黙歩七十年』は同十三年の刊行であるから、そのように推測することができる。

現代文学』の巻末広告を見ると、どうして木星社書院が行き詰まったのか、わかるような気がする。既刊本のメーリング『レッシング伝説第一部』(土方定一、麻生種衛訳)、ライマン『独逸古典文学史批判』(岡田光雄訳)の他に、「最新刊」として次のようなものが挙がっている。宮本顕治評論集『レーニン主義文学闘争への道』、松岡敏幸『ファウスト研究』、土方定一ヘーゲルの美学』、マルコフ『世界農業の現勢と農業恐慌』(三好幸雄訳)、ヘルラア『シベリア』(岡田光雄訳)、それに「近刊」として大塚金之助他『ゲーテ批判』、国際文化批判会記編『資本主義の一般的危機』もある。

これらに加えて、雑誌の季刊『批評』第一冊、季刊『教育評論』第一冊、第一回配本の『明治文学講座』といった予約出版物も掲載されている。『現代文学』も含め、このような木星社書院の刊行物は昭和七年から八年にかけてのほぼ一年間に集中していたはずで、製作費と売上のバランスシートが成立していなかったことはいうまでもあ
るまい。そうした出版状況の中で、月刊誌と呼んでいい『唯物論研究』の発行所も引き受けていたわけだから、木星社書院は出版は行なっていても、出版業として成立していなかったと断言してもかまわないだろう。

しかしそのような福田と木星社書院、隆章閣と併走することによって、唯物論研究会と『唯物論研究』も始まっていったことになる。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら