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古本夜話602 大畑達雄と大畑書店

前々回、『唯物論研究』の第二〇号だけが大畑書店を発行所として出されたことにふれておいた。
(『戦前戦中を歩む』)
大畑書店は本連載588でもその名前を挙げた大畑達雄が立ち上げた出版社である。彼は日本評論社の翻訳者、編集長だった。美作太郎は『戦前戦中を歩む』の中で、その一生を「大畑書店の栄光と受難」と題し、直接の上司で、「そのやさしい性格と堅固な思想を持して」編集の手ほどきをしてくれた大畑について語っている。やはり本連載588で既述したように、日本評論社の創業者の茅原茂が大正十四年に亡くなると、営業部長の鈴木利貞が社長に就任した。ところが次第に鈴木の独裁的になる傾向に対して、従業員組合が結成され、美作たちは昭和四年にストライキ闘争に突入し、翌年に力尽きて退社するに至った。大畑もストに入った美作たちと行動を共にすることはなかったが、同じく鈴木の独裁的なやり方、及び次々と全集物企画を追いかける方針に反発し、退社してしまう。それを美作は次のように記している。

 大畑は鈴木社長が引き留めるのもきかないで、正式に日本評論社を退社し、一九三二(昭和七)年早々に、自分がかねがね抱懐していた出版の理念を生かそうとして、大畑書店を創立した。著者の中にも、この大畑の独立をよろこんでいる人が少なくなかったし、私たちはもちろんこれを支持した。日本評論社時代からの仲間であった秋山という人が経理方面を受けもち、事務所を神田今川小路の教育会館内の小さな一室に置いた。
 大畑書店は、今中次麿の「現代独裁政治論叢書」の第一巻として『現代独裁政治学概論』を処女出版として世に送ってから、一九三四(昭和九)年の前半までの約二年間に、計四十四点の新刊を出版している。これは、月平均二点弱ということになる。この数字は、編集に若い助手を使ったことがあるとしても驚嘆に値する業績であり、しかも出版された本が、紙装、ハードカバーのいずれを問わず、今日に目でみても実に行きとどいた造本の出来映えを示している。このことだけでも、病弱な大畑には大変な激務であったろうと想像されるし、そのための過労が死期を早めるようになったのではないかと思われる。

大畑は持病の肺結核が思わしくなく、中野療養所に入院し、昭和十年に四十五歳の若さで亡くなったのである。茨城県真壁郡の豪農の家に生まれ、早稲田大学卒業後、「出版・編集・翻訳の道を一すじの白銀の糸のように貫いてきた『志』は、ここでぷつりと切れてしまった」と美作は述べ、大畑書店の刊行目録を掲げている。それはこの美作の著書の中でしかリストアップされていないかもしれない。だから興味のある読者はぜひ『戦前戦中を歩む』を見てほしいと思う。ちなみにそこには足助素一の叢文閣の出版目録も掲載されているからである。

それはともかく、美作は大畑書店の刊行書目に大畑の学問に対する深い敬愛、権力の圧迫に対する抗議の精神、ファシズムの科学的分析の精神、マルクス主義の唯物論に基づく企画の追求を挙げている。そして発禁となり、後の瀧川事件へと繋がっていく瀧川幸辰の『刑法読本』、長谷川如是閑『日本ファシズム批判』、若き鈴木安蔵の憲法学の労作『憲法の歴史的研究』、笠信太郎、林要、住谷悦治などの経済学的所産の仕事、唯物論研究会の戸坂潤、岡邦雄、船山信一たちの著作の出版にそれらの投影を見ている。

私も何冊かは入手しているはずだが、現物を見出せず、その代わりに戦後の復刊が出てきた。それらは服部之総の『黒船前後』(筑摩叢書)、本連載523でふれている田村栄太郎の『一揆雲助博徒』(三崎書房)の二冊である。これは古在由重『戦時下の唯物論者たち』所収の「座談会 唯物論研究会の活動」の中での証言だが、服部は幹事であると同時に『唯物論研究』の主たる編集者だった。その事実からすると、第二〇号掲載の田村の「上州世直しと小栗上野之介」は彼の初めての寄稿であり、服部の要請によって書かれたのではないだろうか。そしてその号が大畑書店からの発行となったことも関係しているようにも思われる。
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美作の言によれば、大畑は昭和八年春に、創業して間もない大畑書店の仕事を案じながら入院している。だが刊行目録から明らかなように、大畑の入院中もおそらく「若い助手」が彼の指示を受け、出版を続けていたはずだ。この「若い助手」は田村の著書の「序」で、謝辞が述べられている「大畑書店秋山寿一郎氏」かもしれない。しかし経営者が不在の大畑書店にとって資金繰りは困難を極めたに相違なく、新刊の刊行は九年前半で途絶えてしまったと考えられるし、大畑の病状も悪化し、死も迫りつつあった。

そこで大畑書店から著書を出すことによって知り合った服部と田村が、もしくは服部が大畑に田村を紹介したのかもしれない。危機にある大畑と大畑書店へのカンパの意味で、『唯物論研究』第二〇号を大畑書店発行とするように計らったのではないだろうか。そのために、服部を通じて田村は見舞いの意味もこめ、原稿を書いた。先の座談会の証言からすれば、当時の『唯物論研究』は三千部ほどは売れていたので、大畑書店としての販売マージンはささやかなものであっても、干天の慈雨のようなものになったにちがいない。しかしそれは幹事としての服部の一回だけの独断のようでもあり、幹事会員の判断ではなかったと考えられる。そのような野辺送りを受け、昭和十年に大畑は亡くなり、大畑書店もまた消えていったのであろう。

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