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古本夜話603 服部之総『黒船前後』と国際文化情報社『画報近代百年史』

前回、服部之総『黒船前後』の書名を挙げただけで、その内容にふれなかったこともあり、服部の軌跡を含め、ここで書いておくことにしよう。

『黒船前後』は戦後になって三和書房、角川文庫版が出され、昭和四十一年に増補の上で筑摩叢書、五十六年には新編集で『黒船前後・志士と経済』として岩波文庫に収録されている。前者には「黒船前後初版はしがき」と「同再版はしがき」が収録され、「大畑書店のすすめで、まとめる機会をもった」が、「入念に準備してくれた書肆が、出版後遠くなくつぶれてしまった」と書かれている。それゆえに、「自分でもこのましい本と思っていたが、同時にいちばん不しあわせな本」だったけれど、「不しあわせは自分だけのこと」ではなかったと述べている。再版は初版の二年後の昭和十年に清和書房から刊行されたようだが、未見である。この清和書房に関しては、やはり美作太郎が『戦前戦中を歩む』の中で、大森に住んでいた清水正義、博兄弟が営む出版社だったと語っている。
黒船前後

それはともかく、あらためて『黒船前後』を読んでみると、幕末事情としての「空罎」「尊攘戦略史」「志士と経済」などはとりわけ興味深く、服部が新しい歴史学に基づくエッセイストとして受け止められたことが了解される。「尊攘戦略史」を読み、吉川英治が訪ねてきたというエピソードはそのことを象徴的に示していよう。

また筑摩叢書版の編集に携わった松島栄一の「解説」は、服部の様々なプロフィルを伝えていて、啓蒙的な紹介としてとても優れているのだが、戦後になっての交際もあってか、唯物論研究会と『唯物論研究』のことにはふれられていない。ただそこから浮かび上がってくる服部の実像とは、東洋大学や法政大学教授といったアカデミズムにおける姿ではなく、絶え間なく民間の研究や出版活動に併走し、そして執筆者も兼ねる出版企画編集者の軌跡である。それを『日本近代文学大事典』『近代日本社会運動史人物大事典』などの立項も参照し、たどってみる。
日本近代文学大事典近代日本社会運動史人物大事典

その前に服部の出自と大学を出るまでの経緯も記しておく。彼は明治三十四年島根県西本願寺派正蓮寺に長男として生まれ、三高を経て、大正十四年に東京帝大社会学科を卒業。在学中は新人会に属し、大宅壮一も同期であった。以下に年表を作成してみる。

大正十五年 新潮社で大宅壮一が企画編集した『社会問題講座』に寄稿。
昭和二年 産業労働調査所々員。これは大正十三年に日本労働総同盟の援助を受け、同年に発足した無産階級運動のための専門的調査機関。
昭和四年 中央公論社に初代出版部長として入社。レマルク西部戦線異状なし』をベストセラーとする。
上野書店の『マルクス主義講座』が刊行され、そこに「明治維新史」を執筆。プロレタリア科学研究所にも参加。秋田雨雀を会長とし、昭和四年に設立。『プロレタリア科学』を発行し、専門的研究、講演会と講習会を開催。
昭和五年 岩波書店の『日本資本主義発達史講座』の執筆者に加わる。
昭和七年 唯物論研究会の発起人兼幹事となる。
昭和八年 大畑書店から『黒船前後』刊行。
昭和十年 白揚社の未刊に終わった『日本封建制講座』の刊行を企画。
昭和十一年 花王石鹸社・長瀬商会嘱託となり、『花王石鹸50年史』と『初代長瀬富郎伝』を編纂。
コム・アカデミー事件で検挙。これは先の『日本資本主義発達史講座』や『日本封建制講座』の執筆者たちがソビエトのコム・アカデミーの役割を果たさんとしたものとされる講座派有力者検挙事件。
昭和十二年 白揚社から『明治染織経済史』、育生社から信夫清三郎との共著『日本マニュファクチュア史論集』を刊行。
昭和十三年 花王石鹸入社、宣伝部長、敗戦後までその役員。唯物論研究会創立者の一人として検挙され、思想弾圧強化のため論文発表を断念。それでも渋沢栄一をモデルとした村山知義との合作シナリオ『藍玉』を書く。
昭和十八年 ムーランルージュ文芸部の小沢不二夫が『初代長瀬富郎伝』をモデルとした小説『青雲』を刊行し、また島崎藤村も絶筆『東方の門』でも同じくモデルにしている。

これらは戦前だけの服部の研究会や出版活動とその余波を抽出したものだが、そうした動向は戦後も継続されている。その中での出版活動だけを紹介しておきたい。服部は昭和二十六年から国際情報社で、『画報近代百年史』『画報現代史』などの写真を主とする画報形式による日本歴史の出版に携わっていた。これは視覚による歴史への接近と理解、簡潔な解説による分析で、後に続く多くの図説や図録物の先駆的出版であり、それらをまとめた日本近代史研究会編『写真図説総合日本史』は、昭和三十二年の毎日出版文化賞を受賞している。それは服部が亡くなった翌年のことだった。

画報近代百年史画報現代史

こうした国際情報社=国際文化情報社の出版物は、同社の写真グラフ雑誌と同様に、直販システムで流通販売され、広範に頒布されたと思われる。現在でも古本屋の均一台でこれらの端本をよく見かけるが、服部が企画編集に携わったことを知ると、感慨深い思いに捉われる。このような出版物もまた一朝一夕にしてなったものではないことを教えられるからだ。

それから戦前のことだが、服部が中央公論社の初代出版部長だったとは知らなかったので、『中央公論社の八十年』を確認してみると、大宅壮一の推薦によるもので、「年表」の「昭和4年7月」のところに、「出版部長として入社」とあった。またレマルク『西部戦線異状なし』のことだけれど、この中央公論社の処女出版のベストセラー化は、服部と同時に入社した営業部長の牧野武夫の『雲か山か』(中公文庫)の記述により、牧野が手がけたとばかり思っていた。それは『出版広告の歴史一九八五年…一九四一年』(出版ニュース社)で、『西部戦線異状なし』を担当した尾崎秀樹も同様である。ただよく考えれば、牧野は営業担当だし、企画編集者は別にいたと見たほうが妥当であろう。しかし『中央公論社の八十年』にはそのことに関する言及はなく、手元にある昭和四年十二月十五日百十版を見ても、服部の名前もない。

雲か山か

秦豊吉の「序」にあたる「訳者より」には「昭和四年九月」の日付で、「日本に於ける出版権並に翻訳に就て、多大の尽力をされたのは、野原駒吉君、野原乙董君である。僕は厚く御礼を申述べなければならぬ」と書いている。この言葉からすれば、実質的な企画編集者はこの二人の野原だと思われる。だが二人の名前は『中央公論社の八十年』にも見あたらないし、おそらく編集部の末端にあったからかもしれない。同書の「年表」の「10月」のところに「『西部戦線異状なし』(ルマルク、秦豊吉訳)を中央公論社出版部の処女出版として刊行、たちまちベストセラー」とある。服部と牧野の入社は七月であるから、直接企画編集には携わっておらず、たまたま二人がそれぞれ出版、営業部長についていたので、ベストセラー業績も付加されたということになるのだろう。

なおその後読んだ高橋輝好『日・独の闇に消えた男―「野原駒吉」探索ノート』(さんこう社、二〇〇九年)によれば、野原駒吉は日独混血の在独日本大使館関係者であり、中央公論社の編集者ではない。それゆえにここで秦が述べているのは版権取得に関する謝辞だと見なせよう。
日・独の闇に消えた男―「野原駒吉」探索ノート

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