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古本夜話610 ウィットフォーゲル『東洋的社会の理論』

本連載582などで、『新独逸国家大系』やナチス関連書のことを書いてきたけれど、日本評論社は多くの研究書や学術書も出していて、ウィットフォーゲルの『東洋的社会の理論』もその一冊で、訳編者は平野義太郎と森谷克巳である。美作太郎は『戦前戦中を歩む』の中で、日本評論社からの同書の刊行によって、平野と久闊を叙したと書いている。もっともそれをきっかけにして、『新独逸国家大系』の企画が持ちこまれたのではあるが。
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ウィットフォーゲルの名前を意識するようになったのは、吉本隆明の『共同幻想論』(角川文庫)の「全著作集のための序」に見える次のような文脈からだった。
共同幻想論

 ウィットフォーゲルがわが国を〈アジア〉的という概念からの除外例とした理由は、わたしが勝手にアレンジしてみればふたつに帰せられる。ひとつは可成り初期の段階から、わが農耕民が、自作農的な私有耕作をやっていたことであり、またもうひとつはインドや中国のように〈アジア〉的専制を支えた大規模な水力灌漑のための工事や、運河の開削などを必要としない地理的な特性をもっていたということである。

これは私固有のウィットフォーゲルとの出会いであるので、通常の紹介も必要であろう。『世界名著大事典』の著者立項も引いておく。没年はこちらで加えた。

 ウィットフォーゲル Karl August Wittfogel(1896〜1988)
 ドイツ生まれの社会学者。若いころハイデルベルグ大学などに学び、1919年共産党に入党、中国革命に関心を向け、しだいにマルクス主義の方法による中国社会、東洋社会の研究に従事し、生産力の自然的基礎(水の理論)より東洋社会の停滞性の構造を明らかにし、その方面で大きな業績をうちたてた。34年ナチスに追われてアメリカに亡命、41年に帰化、その後コロンビア大学にあって東洋社会の研究を続けているが、アメリカ帰化後はいちじるしく文化人類学の影響をうけている。(以下主著などは後略)

『東洋的社会の理論』は二人の「訳編」と謳われているように、四編からなり、タイトルと同じ第一編「東洋的社会の理論」がウィットフォーゲルの主著『東洋的専制主義』を出典とする論稿である。おそらく吉本が参照したのはこの「東洋的社会の理論」だろうし、水と農業にまつわる四枚の口絵写真もそれに関連していると思われるので、この論稿を追ってみる。

そこでのウィットフォーゲルの要点を挙げておこう。「農業生産における特殊化的契機としての人工灌漑」と「灌漑農耕」の関係に目を向け、その場合は「水が大規模に馴致されるべきである。河川には築堤され、堰堤が築かれ、運河が開鑿されるべきである」とする。それゆえに水の規制の課題は「この任務とその他の任務を結合し独立化せしめ、かくして経済的並びに政治権力を獲得して自ら国家として構成せんとするところの特殊な集団によって」「社会的に遂行されねばならない」。それにはもうひとつの契機に他ならない「時の規則」が加わる。農業は季節のリズムとしての雨期、諸河川の増水と減水の始期と終期といった「暦の精確なる秩序」への要求が生じる。そのためには国家が天文学をも管理するようになる。

つまり農業、人工灌漑、そのための河川の築堤と堰堤、運河の開鑿による社会的治水、それらを通じての経済的政治的権力を有する国家の構成、それに付随する天文学の管理といったファクターが中国やインドに象徴される「東洋的専制主義」を出現させたことになる。そのような国家的灌漑社会に対して、日本は河川地域が狭小だったので、灌漑は地方的な規模で行なわれたにすぎず、天文学も必要ではなく、発達しなかったのである。それらのことを考えると、日本はアジアに位置しているが、異なっているといえる。

平野が記している「訳編者のことば」によれば、これらも含めたウィットフォーゲルの見解には訳者たちにしても、経済史家たちにしても、多々の異論があるとされ、そのひとつはアジア社会の基礎条件としての治水、灌漑事業と閉鎖的・孤立的な農村共同体との関係は、ウィットフォーゲルが考えるよりもさらに複雑だし、不可分だと唱えられているようだ。

吉本も『共同幻想論』において、ウィットフォーゲルに異論を呈しているといっていい。確かに日本の場合、大規模な灌漑工事や運河開削は必要としなかったが、日本の初期国家の首領たちにとって、文化と文明は大陸からの輸入品で、それを分布させるための財力や権力として、専制力は発揮された。それは「〈観念のアジア〉的専制」というべきもので、それに地理的条件から考えても初期国家において、海部民、農耕民、狩猟民が多層的に混合していた。それが「共同観念の構造を複雑化し」、大陸とは異なる「〈アジア〉的特性のひとつの典型」を生み出したのである。そして吉本はいう。これはウィットフォーゲルへの反論と見なせるだろう。

 わが初期国家の専制的首長たちは、大規模な灌漑工事や、運河の開削工事をやる代わりに、共同観念に属するすべてのものに、大規模で複合された〈観念の運河〉を掘りすすめざるを得なかった。その〈観念の運河〉は、錯綜していて、〈法〉的国家へゆく通路と、〈政治〉的国家へとゆく通路と、〈宗教〉的イデオロギーへゆく通路と、〈経済〉的な収奪への通路とは、よほど巧くたどらなければ、つながらなかった。〈名目〉や〈象徴〉としての権力と、じっさいの政治的権力と、〈宗教〉的なイデオロギーの強制力とは別個のものであるかのように装置されていて、よほど、秘された迷路に精通しないかぎり、迷路に陥こむように構成された。そこには、現実の〈アジア〉的特性は存在しないかのようにみえるが、共同幻想の〈アジア〉的特性は存在したのだ、と……。

省略して引用するつもりだったが、『共同幻想論』のエッセンスともいうべき重要な部分であるので、省略を施すことができず、長くなってしまった。ここで吉本が述べていることは、本連載の目的のひとつとつながってもいるのだ。近代の共同幻想とは「〈アジア〉的特性」の上に、「西洋」という「〈観念〉の運河」を、出版物を通じて接木し、成立したと見なせるからだ。その「迷路」を本連載はたどっていることになる。

ここでウィットフォーゲルに戻ると、彼の『東洋的社会の理論』『共同幻想論』にも投影されていることを考えれば、この戦前の「編訳」版はその使命の一端を果たしたことになろう。なお同書以前にはウィットフォーゲルの著書として、『支那社会の科学的研究』(平野義太郎、宇佐美茂雄訳、岩波新書)、『支那の経済と社会』(平野義太郎監訳、中央公論社)が出されていて、前者は太平洋問題調査会版の新書化のようだ。
支那社会の科学的研究(『支那社会の科学的研究』)

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