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古本夜話689 釈宗演、シカゴ万国宗教大会、佐藤哲郎『大アジア思想活劇』

本連載670で釈宗演が今北洪川の弟子にして、鎌倉円覚寺で、夏目漱石や杉村楚人冠の参禅に寄り添ったことを既述した。釈については『日本近代文学大事典』に立項が見えるので、まずそれを示す。

 釈 宗演 しゃくそうえん 安政六・一二・一八~大正八・一一・一(1859~1919)禅僧、歌人。若狭高浜の生れ。号は洪岳、楞伽窟。幼名は常次郎。明治四年生家一瀬氏と俗縁のあった京都妙心寺の越渓による得度、一一年鎌倉円覚寺の今北洪川に参ずる。一八年慶應義塾に入り、二一年にはセイロンに渡航、厳格な戒律のもとに修業した。二五年洪川没後円覚寺派管長に推され、二六年にはシカゴの万国宗教大会に日本仏教者を代表して参加する。夏目漱石が円覚寺の塔頭帰源院に参禅し、宗演の提撕をうけたのは二七年末から二八年正月にかけてであった。三六年建長寺派の管長も兼ねる。外遊すること数次、禅の挙揚弘布につとめる。寂後一山中与開山の称を円覚寺派から贈られた、短歌もつくっていて、その三周忌には佐佐木信綱によって『楞伽窟歌集』(大一〇・一一 東慶寺)が編まれた。『釈宗演全集』一〇巻(昭和四~五 平凡社)が刊行されている。

実はすでに十年近く前になるのだが、浜松の時代舎の全集在庫案内で、最後のところに挙げられている『釈宗演全集』を目にした。そこで購入するつもりでいたけれど、倉庫の奥深いところに在庫が置かれているようで、いまだもって入手に至っていない。それゆえに釈についての言及を『全集』を読み終えてからと考えていたが、それを待っていると、いつのことになるかわからないので、ここで書いておくことにする。

釈宗演全集(第9巻)

そうしたこともあり、釈の著書は本連載266の京文社から昭和四年に出された『叩けよ開かれん』しか入手していない。最も取り上げておきたかったのは、立項にも記されている明治二十六年のシカゴの万国宗教会議に関してで、『全集』の代わりに佐藤哲朗の『大アジア思想活劇』(サンガ、平成二十年)を読み、そこに「シカゴ万国宗教大会 仏教アメリカ東漸」の章を見出したのである。またその口絵写真にはシカゴ万国宗教大会のものまで収録されていたのだ。
大アジア思想活劇

佐藤は『大アジア思想活劇』の前向上において、京都生まれの講談師野口復堂、">本連載652などでふれたアメリカ人神智学者オルコット、スリランカの仏教者にして民族主義者ダルマパーラを召喚し、そのサブタイトルにある「仏教が結んだ、もう一つの近代史」を始めている。それは野口のインド旅行からオルコット来日に至る詳細、ダルマパーラとの出会い、神智学とインドの関係などに関して、知らなかったことの教示に満ちているのだが、ここではシカゴ万国宗教大会のことだけに言及したい。

一八九三(明治二十六)年にコロンブスのアメリカ大陸発見四百年を期し、シカゴでコロンブス記念万国博覧会が開催された。これに合わせて、J・H・バローズを中心とするアメリカの自由神学者、知識人を発起人として、シカゴ万国宗教大会(The World’s Parliament Religions)が企画される。それは会期を九月十一日から二十七日とするもので、世界中の異なる宗教的指導者が一堂に会し、平等の立場で討議を行なうという史上初めてのイベントであった。

ダルマパーラは大菩提会を主宰し、一八九二年にカルカッタでその機関誌『大菩提雑誌』(The Maha Bodhi Journal)を創刊した。これはアジア諸国に散らばる仏教徒のネットワークの確立をめざしたもので、欧米にまで読者は広がっていた。バローズも読者だったことから、セイロン仏教界の代表として、ダルマパーラを招待したのである。彼はロンドン経由でアメリカに向かい、ロンドンでは神智学協会の歓迎を受け、アニー・ベサントたちとともにシカゴに着いた。

日本からは釈宗演(臨済宗)、土宜法龍(真言宗高野山派)、芦津実全(天台宗)、八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の四人が参加した。バローズからは本連載513の島地黙雷や同525の南条文雄も招待されていたが、日本仏教界においてはこのイベントに関する不信感もあり、そのために出席を辞退していた。なお日本のキリスト教会を代表して、小崎弘道、同じく神道からは柴田礼一が出席している。

通訳としては野口復堂、貿易商の野村洋三が彼らとともに渡米し、本連載139でふれた平井金三もまた前年からアメリカで仏教講演活動を続けていたので、シカゴで合流した。また釈宗演の演説草稿を英訳したのは鈴木貞太郎、後の大拙だった。そして大会前に釈はかつてセイロンで相知ったダルマパーラと再会している。なお訳は大会の書記官長を務めたポール・ケーラスとも親交を結び、大拙を彼のもとに送ることにつながり、土宜法龍は閉会後にヨーロッパに渡り、ロンドンで南方熊楠と親しむことになる。

開会当日の九月十一日の大会会場のレークフロント・アートパレスには各国の代表二百数十名、聴衆五千七、八百人であふれるほどだった。言葉が通じないにしても、釈や土宜の講演はその人格力で仏教の玄妙を説き、アメリカ知識人に強い印象を与えたとされるが、とりわけ観衆の人気を博したのは黒髪をたたえ、白いローブをまとったダルマパーラで、それは仏教使節というよりも、イエス・キリストをイメージさせたのである。それはキリスト教の代表たちの誰ひとりとして、そのような印象を与えることはなかったのである。

佐藤はそのダルマパーラの写真を掲載し、現地の新聞記事を引用しているので、それを紹介しておこう。

 黒くカールした(カーリー・ロックス)髪を広い額から後ろへかきあげ、鋭く澄んだ瞳で聴衆をじっと見すえ、長い褐色の指で響きわたる演説を強調する。彼にはまさしく伝導者(プロパガディスト)のおもむきがあった。かかる人物が、すべての仏教徒を結集せしめ、文明化した世界のいたるところに「アジアの光」を広める運動の先頭に立っていることを知って、人々は恐れおののいた。

佐藤はそれが「袈裟をまとって頭を丸めた坊さん」であれば、そのような反響を呼ぶことはなかったであろうと記し、実際に感動して、仏教に帰依したアメリカ人の例を挙げ、ここに「仏教は本当にアメリカに上陸したのである」と述べている。そして同時に「結果としてこの万国宗教大会は植民地支配下で貶められていた東洋の精神文明を、西欧社会に宣揚する一大イベントと化してしまった」ことも。

それは日本にとっても同様であった。佐藤は「シカゴ万国宗教大会 仏教アメリカ東漸」を次のような一文で閉じている。

 明治初頭の廃仏毀釈から立ち直った日本仏教は、このシカゴ万博を契機として、ようやく日本の精神文化の一役を担う存在として「宗教面での国威掲揚」を果たした。それ以上にダルマパーラ、釈宗演、土宜法龍といった個々の仏教者にとって、世紀末シカゴで花咲いた能天気な夢の祭典は、その後の半生の(ママ)方向づける大きなターニングポイントになったのである。

なおこのシカゴ万国宗教大会資料として、The World’s Congress of Religions(Edition Synapse,2005)、研究としてR.H.Seager, The World’s Parliament of Religions : The East/West Encounten, Chicago,1893(Indiana Univ.Pr,2009)などが刊行に至っている。


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