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古本夜話690 ポール・ケラス、八幡関太郎訳『仏陀の福音』

前回のシカゴ万国宗教大会に関連して、もう一編書いてみる。大会の書記官長を務めたのがポール・ケーラスで、それをきっかけにして釈宗演は親交を結ぶようになり、釈は鈴木貞太郎=大拙をケーラスのもとに送ることになったのである。

大拙は明治三十年に渡米し、ケーラスが営むオープン・コート出版社に入り、編集者として働くかたわらで、英語で『大乗仏教概論』を出版した。そして四十二年に帰国したが、その間に本連載669、 671の森江書店や丙午出版社からケーラスの『仏陀の福音』や『阿弥陀仏』、四三年には有楽社からスエデンボルグの『天界と地獄』を翻訳出版している。ケーラスとオープン・コート出版社、スエデンボルグの関係は 本連載247「鈴木大拙訳、スエデンボルグ原著『天界と地獄』」を参照されたい。これらの三冊の翻訳は岩波書店『鈴木大拙全集』第二十五巻に収録されているので、現在でも容易に読むことができる。

『鈴木大拙全集』第二十五巻

ところがさらに二冊、ポール・ケーラス(ケラス)の『仏陀の福音』があって、一冊は大原嘉吉訳、もう一冊は八幡関太郎訳で、後者は昭和十年に発行者を渡辺龍策とする南光社版を入手している。その「序」は武者小路実篤によるもので、彼『釈迦』を書いた際にはこの本が念頭にあったと記され、またこれが再版であることも伝え、もうひとつの「序」は柳宗悦によって書かれ、こちらは一九一九年、大正八年の初版時のものだとわかる。
釈迦

そして「訳者の序」が続き、ちょうど二十年前に『仏陀の福音』を読み、「初めて東洋の大聖仏陀を知り、仏陀の教理の大要を知つた」と述べている。その感激を具現しようとして翻訳に取りかかり、「四年後の大正八年、とにかく一書に纏め、当時五千の善き読者を得た」。だが機会があれば、誤訳などの訂正本を出したいと考えていたので、ここにようやく再出版となったと記している。ちなみに初版は誠文堂から出され、翌年には使命社版も刊行されているので、南光社版は三回目の出版ということになる。

またさらに「原著者の序」も置かれ、そこには『仏陀の福音』のテーマが提出されている。

 この本は(中略)真の仏教徒が皆共通の基礎としてゐる理想的命題をとつた。かやうにこの仏陀の福音の調和的な組織的な形式の配置は、全体として、この本の独創的な特徴である。(中略)而して編者の狙ひは、新約書の第四福音書の作者がナザレのイエスの生涯の叙述を用ひたことを思ひ、同じ方法で自分の材料を取扱ふことにあつた。編者は彼等の宗教哲学の趣旨に鑑みて、仏陀の一生の既知件を示すことを敢えてした。(後略)

つまり簡略にいってしまえば、ここでケラスは『新約聖書』の「ヨハネ伝」を範とする「仏陀の一生」、即ち『仏陀の福音』を編むと述べているのである。またケラスはキリスト教仏教が世界の二大宗教で、マックス・ミュラーの仏書の中にキリスト教と同じ趣旨を発見することは喜びであるとの言も引いているし、それは本連載654の藤無染の『二聖の福音』をも想起させる。そして実際に『仏陀の福音』はその誕生から入滅までがたどられていく構成となっている。

この八幡関太郎訳と大拙訳の『仏陀の福音』の相関は定かでないが、武者小路実篤柳宗悦の「序」からして、明らかに八幡は白樺派の近傍にいたと見なせるので、八幡訳は文学や芸術方面、大拙訳は新仏教運動へと影響を及ぼしていったと考えられる。しかも前者の「当時五千の善き読者」は大拙訳を上回っていたかもしれないし、文学や芸術の領域にあっても、ひとつの水脈となっていったのかもしれない。

しかし八幡に関してもずっと探索していたのだが、そのプロフィルはまったくつかめないままで、長い時間が過ぎたことになる。ところが最近になって、ようやくネット上の「はこだて人物誌」に八幡の立項を見出すことができたのである。詳細はそちらを見てほしいが、とりあえず彼に関するラフスケッチを提出しておく。

八幡は明治二十六年に函館に生まれ、札幌中学卒業後、二十四歳で上京し、『白樺』の同人となる。そのために武者小路実篤と柳が「序」を寄せていたことが了承される。それを確認するつもりで、『日本近代文学大事典』の『白樺』の立項を見てみると、大正の『白樺』中期の同人として倉田百三犬養健尾崎喜八、新城和一、木村荘太、涌島義博たちと並んで、確かに八幡の名前も見える。この時期に志賀は『城の崎にて』を発表し、武者小路は「新しき村」の建設に情熱を燃やし、『幸福者』の連載を始め、小泉鉄が編集の中心になっていたとされる。

大正七年に八幡は函館から池袋に移した雑誌『太陽の都』を編集し、千家元麿、武者小路、小泉たちが寄稿者となっていた。その一方で、千家、倉田、尾崎などと『白樺』の兄弟雑誌というべき『生命の河』を創刊するが、これは数号で廃刊となり、八幡はさらに『使命』を刊行するに至る。おそらく第二版の使命社とはこの雑誌と関連しているのだろう。その後、中国文学を志し、東洋美術研究家として知られ、名著とされる『支那画人研究』(明治書房)、明末清初の画家の評伝『石涛』などを著し、後者はただ一人の門弟とされる福田恒存の手で出版されたという。また日本最初の金石文字(古代文字)研究の先駆者ともされ、昭和三十年に函館で亡くなっている。

ただ残念なことに、八幡における『仏陀の福音』の翻訳とその再版については語られていない。だが同書に挿絵=口絵写真として「仏陀の像」が収録されていることからすれば、おそらくその翻訳が東洋美術史研究のきっかけになったにちがいないと思われる。


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