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古本夜話695 畦上賢造訳『自助論』と内外出版協会

前回、これも言及できなかったけれど、山室軍平の『私の青年時代』の中に、活版小僧として働くかたわらで、勉強と読書にいそしんだことが語られ、次のような記述にも出会うのである。それは明治二十年頃だった。

 其の頃私は又スマイルスの「自助論」(中村敬宇訳「西国立志篇」)を得て之を読み、その中に出て居る英米人の不屈不撓(ママ)、万難を排して、何事かやり出した、多くの模範に感動した。其の書の中に、誰か活版職工から出て、えらくなった人の事はないかと、探して見たが、見つからない。ベンジャミン、フランクリンの事は出て居るけれども、彼が活版職工であつたといふことを、明言してないのが物足りなく覚えられた。

その後『泰西名士鑑』という本を読み、フランクリンが活版職工だったと明記されていたので、山室は「大に励みを得た」と述べている。

かつて拙稿「現代の立身出世本」(『文庫、新書の海を泳ぐ』所収)において、『西国立志編』講談社学術文庫)と福沢諭吉の『学問のすゝめ』が明治前半のベストセラーで、青年たちに立身出世主義の方向付けを与えたことにふれている。そしてそれは明治政府の体制ヒエラルキーから排除されている青年たちにあてた、旧幕臣系知識人たちのメッセージと見なし、「このメッセージに鼓舞され、青年たちは都市に向かい、学校に入り、そして実業界、出版ジャーナリズム、文学やキリスト教へと近づいていった」ことを既述しておいた。
文庫、新書の海を泳ぐ  西国立志編

そのキリスト教バージョンとして、前々回の明らかに福沢の『学問のすゝめ』からとられた『信仰のすゝめ』を著した金森通倫、それに前回の山室軍平を挙げることができるだろう。しかしここでひとつだけ留意しておかなければならないのは、山室がスマイルスの著書を『自助論』と表記していることで、それはキリスト教バージョンにおいて、『西国立志編』は原タイトルのSELF‐HELPである『自助論』として受容されたことを伝えているのではないだろうか。

手元に静岡の葵文庫の蔵書『西国立志編』の表紙と奥付、最初の四ページを収録した『「しずおか」の貴重書』があるが、それは明治三年の同人社版で、現存する中では最も古い版とされている。その第一編第一章は「自ラ助クルノ精神」と題され、「天ハ自ラ助クルモノヲ助ク」ということわざから始まり、これは講談社学術文庫版の原文補記によれば、Heaven helps those who help themselves の訳文となる。

訳者の中村正直は英国留学中の一八六七年=慶応三年にロンドンで出版されたスマイルスの著書を入手して読み、『西国立志編』として翻訳出版するに至る。その後、中村の翻訳書は様々な出版社からも刊行され、多くの版があるとされているし、実際に以前入手した『西国立志編』は菊半截版で、明治二十年に翻刻人を武田福蔵として、大阪での出版である。また中村以外の訳者によるものも出されているかもしれないが、それらは詳らかでなかった。なお中村の同人社は本連載233、234の同人社とは異なることを付記しておく。

ところが最近になって浜松の時代舎で、まさにその『自助論』、しかもキリスト教陣営の手になる訳書を見つけたのである。それは訳者を畦上賢造とし、出版社を内外出版協会として、明治四十年に出版されている。奥付を見ると、三十九年に分冊で三巻と続編が出され、入手したのはその合本である。菊判上製六五九ページに及ぶ大冊で、入手したのは裸本だが、函入であったかもしれない。版元の内外出版協会と山縣悌三郎に関しては本連載221、222で取り上げているので、そちらを参照してほしいが、『自助論』の発行者は山縣操となっていることからすれば、これは夫人名とも考えられる。

訳者の畦上については、幸いにして『日本近代文学大事典』に立項されているので、それを引いてみる。

 畦上賢造 あぜみちけんぞう 明治一七・一〇・二八~昭和一三・六・二五(1884~1938)宗教家。長野県上田市生れ 内村鑑三門下の伝道者。青年期にリンカーン、スマイルスなど幾多の訳書、『歩みし者』(大六)『宗教詩人としてのブラウニング』(大一三・三 警醒社書店)『ロマ書註解』(昭五・一〇 一粒社)『たましひの歌』(昭一〇)の著作がある。日本聖書雑誌(昭和五~一二)主筆。(後略)

ここに金森、山室に続いて三人目の伝道者が現われたことになる。その畔上がスマイルスの訳者であることも偶然ではないだろうし、日本における近代キリスト教受容の一角には『自助論』のエトスが流れこんでいたことも疑いをえない。

また畔上が明治三十年九月一日付の「序」に記しているところによれば、中村先生訳は漢文調ゆえに「現代青年の甚だ了解に苦む所」があること、また「序文の意を略したる所」が多いことから、「吾人は甚だ之を遺憾とし、別に新に『自助論』を、今日の時文に翻訳して解読に易からしめ」んとの試みとされている。つまり時代に合わせた新訳と完訳を兼ねた版の提出を目的とするものだった。

そればかりか、巻末広告を見ると、同じくスマイルスの『職分論』(若月保治、栗原元吉訳)、『勤倹論』(若月保治、竹村修訳)、『品性論』(竹村修訳)も掲載されていて、これらに『自助論』を加え、畔上が「序」で「スマイルス氏の四大著書」と述べているのだとわかる。このことから考えると、内外出版協会はこれも畔上がいう「現代青年」のためのスマイルスの新訳や完訳の出版を敢行したことになる。しかし前述の本連載で記したように、その後の内外出版協会の行方を知ると、この試みが成功しなかったと判断するしかないのである。


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