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古本夜話696 三井晶史『法然』

新光社のことは本連載171、172、173などで言及してきたし、同642でも経営者の仲摩照久についてはその経歴などを提出しておいた。だがその出版物に関しては全貌がつかめていない。

とりわけ出版物は雑誌の他に三百余点に及んでいるとされるけれど、その全出版物の明細も不明のままである。例えば、本連載659『仏陀の生涯と思想』の巻末広告には近刊も含め、仏教書、科学書、小説、戯曲、評伝、詩集などの三十点が掲載されている。それらのラインナップは新光社と仲摩の多彩な出版と著者人脈を彷彿とさせるにしても、明確な出版と編集コンセプトをうかがわせるものではない。ただその一方で、仲摩は高楠順次郎と提携し、『大正新修大蔵経』を企画進行させていた。これが関東大震災によって烏有に帰してしまい、高楠が自ら手がけることになったことは、本連載503「大正一切経刊行会『大正新修大蔵経』」で既述しておいたとおりである。また仲摩はその後、これも同173の『日本地理風俗大系』、及び『世界地理風俗大系』『万有科学大系』などの円本を企画しているので、編集者というよりも、本領とするところは出版プロデューサーと見なすべきかもしれない。
(『日本地理風俗大系』)

それでも仏教書は明らかに高楠関連のものだと推測できるし、それは『仏陀の生涯と思想』の訳者鈴木重信が彼の弟子であることにも示されている。そしてこれも断言できないけれど、その巻末広告にある三井晶史の創作『法然』も同様ではないかと思われる。三井については本連載374などでもふれているが、その明確なプロフィルは判明していない。ただはやり新仏教運動に寄り添っていた研究者であると同時に、仲摩と同じ出版プロデューサーだったと考えられる。

それは私の所持する『法然』が新光社版ではなく、東方書院版であることにもよっている。東方書院のことは本連載371などで取り上げてきたように、坂戸彌一郎を発行人とし、三井が編集を担当していた。東方書院版『法然』の奥付を見ると、大正十一年十月第一版、同十三年十二月第十一版とある。これは前者が新光社の第一版を示し、後者は函に「1924」とあるので、東方書院に版が移り、第十一版と断定できないが、重版されたことを意味している。これは関東大震災による版の移動と見なせるだろう。また三井と東方書院の関係をも伝えているし、おそらく彼が東方書院に籍を置いたことによっているのではないだろうか。

しかしそれらの事情はひとまずおくとして、『法然』の内容を見てみる。その前に『観無量寿経』の一節と、親鸞の言葉に続いて引かれているその「序」にあたる三井の一文を示す。それはこれまで三井に言及してきたけれど、彼の肉声にはふれてこなかったからだ。

 この創作は、私が永い間、親しみ、研究してきた「法然」を、なるべくそのまゝに描き出さうとしたものだ。法然の思想は、たゞ念仏によつてみ(ママ)仏に救はれると云ふ、純浄無垢な信仰生活にあつた。その信仰生活の中に人としての法然も、宗教家としての法然も生きてゐた。そして、その純浄な信仰が、そのまゝで旧仏教に対する一切の否定となつてゐた。
 私は、法然の歴史について、あまりに詳しく知りすぎてゐないために、題材の取捨については、いろゝゝの困難を感じた。親しみ深い法然の弟子で、この創作にかくれてゐるのも幾たりとなくあるのだ。
 私はこの創作をなし終へて、非常に寂しい気がする。親鸞流行の時代に、この創作を出すことは、非常に芳しく、且つ非常に寂しい気がする。

ここに三井が法然の信者にして研究者であることが語られ、そして創作『法然』の物語が始まっていく。この九章からなる『法然』は、まず盛久が法然を信じる北面の武士の父師秀の唱える念仏への疑念をイントロダクションとしている。それは「念仏を唱へれば、それで人生が救はれる?莫迦な!そんなことがあつてたまるものか。この苦悩に充ちた人生が一遍の念仏で救はれてたまるものか。念仏の行者はみな仮想に生きてゐるのだ(……)」というものだ。そのように思う中で、二十二歳の盛久は肉愛に悩まされ、母の侍女との間に子をなし、しかも母子は同じく罪の意識から姿を消してしまっていた。彼は罪を償うこともできず、意を決して断根し、やはり京の街から出出奔してしまう。それは安徳天皇の養和元年秋のことだった。

それから四年の月日が流れ、盛久は僧形姿で今日の東山吉水の近くに現われ、煩悩にまみれ、飢えと疲れで眠りについてしまっていた。そこに出家が通りがかり、盛久を山の草庵へと誘い、粥を与える。彼は無意識に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」を唱え、粥をすすりこむと心身が休まるようにも思われた。出家は法然の弟子とわかる感西を名乗り、師匠の会いたいとの言葉を伝え、盛久を法然のもとへと連れていく。盛久はかつて法然を罵倒したりしていたが、「今洛中洛外に名高い念仏門の大先達にある」にもかかわらず、「飾気のない純浄な人」に見え、「法然の体からは暖い意志がたえず流れ出てゐるような感がした」のである。この法然との出会いと対話によって、盛久は安楽房遵西と名を改め、法然の弟子となった。

そして法然とその弟子群像をめぐるドラマが展開されていくわけだが、それは安楽を中心とする史実に基づくものとして進行する。その史実と建永一年に起きた安楽、住蓮事件で、後鳥羽院の熊野御幸の留守に、院の女房が法然の弟子の二人に近づき、院の逆鱗にふれ、二人が死罪となり、法然もまた流刑とされたものである。その事件を経て、法然が大谷の山上の小庵、後の知恩院で、八十歳で没するまでを描いていく。だが『新約聖書』の「福音書」がそうであったように、三井の創作『法然』のモチーフは、あくまで弟子としての安楽と師である法然との関係を描くことにあったと思われる。


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