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古本夜話703 井東憲『南洋の民族と文化』と「東亜文化叢書」

大東出版社は前々回の東亜協会との関係の他に、「東亜文化叢書」というシリーズも刊行している。国会図書館を調べると、九冊刊行されているが、昭和十六年十月時点で、四冊までは出版されている。それらを挙げてみる。

1. 実藤恵秀 『近代日支文化論』
2. 井東憲  『南洋の民族と文化』
3. 西本白川 『康煕大帝』
4.徳齢女士 実藤恵秀訳 『西太后絵巻』

このうちの2の『南洋の民族と文化』が手元にある。井東はその「序」で、「南洋に関する著書が、ハイスピードで書店に現はれ出した」と述べ、「大日本帝国の、大陸政策と、南洋問題とは、実に深い関係にあると同時に、その関連性は、東亜共栄圏の中心的重要性を持つてゐる」と記している。この言は大東出版社における前々回の東亜協会編『北支那総覧』や、中国と南洋問題が重なる「東亜文化叢書」の出版の背景を物語っていよう。
南洋の民族と文化(大空社復刻)

ただ「東亜文化叢書」における井東の著書の大筋は、前述の「序」に見合うタイトル通りの内容であるのだが、第八章「南洋華僑の問題」に「支那事変の南洋に於ける抗日宣伝の凡ては、ユダヤ系の通信社と新聞とラヂオ、映画の仕事であつた」という文言が見えている。これによって、その「序」にある「本著の為め、いろゝゝと御後援を賜つた、ユダヤ問題研究の権威、政経学会の増田正雄先生に、深謝する」との謝辞の理由が判明する。井東はどのような回路をたどったのか、本連載615などのユダヤ陰謀論者の増田にまさに親炙し、そこに記されているように、『ユダヤ問題の研究』なる一冊をも上梓しているのだ。

ちなみに井東は本連載25で既述しているが、昭和艶本時代の梅原北明の『文芸市場』の執筆者にして、やはり北明が文芸資料研究会から刊行した「変態十二史」シリーズの『変態人情史』と『変態作家史』の著者だったのである。先には彼の簡略なプロフィルを示しただけだったので、ここではあらためて『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。
日本近代文学大事典

  井東憲 いとうけん 明治二八・八・二七~昭和二〇・?)小説家、評論家、東京牛込生れ。本姓伊藤憲。質屋の小僧をはじめとし、数多くの職業を転々とした。この生活体験が社会主義文学のコースをたどらせたと思われる。正則英語学校を経て、大正八年明治大学法科卒業。「種蒔く人」「新興文学」「文芸戦線」で活躍、『地獄の出来事』(大一二・三 総文館)を刊行。「文芸市場」では編集にも関係した。もっとも早い時期の有島武郎の研究書『有島武郎の芸術と生涯』(大正一五・六 弘文社)の著者としても著名。(中略)ナップにも属し、一九二七年(昭和二)の上海の革命を克明に描いた『赤い魔窟と血の旗』(昭和五・四 世界の動き社)のような特異な作が注目されるが、小説としてはやや通俗的である。昭和十年代はもっぱら中国の書の翻訳、中国に関する啓蒙的解説書を刊行している。

本連載120や121を始めとして、マルクス主義者、宗教学者、碩学な研究者たちが大東亜戦争下に向かう過程で、奇怪というしかない言説やその磁場へなだれこんでいったことにふれてきた。それは井東も例外ではなく、彼の場合はプロレタリア文学者、梅原北明たちの『文芸市場』と文芸資料研究会のメンバー、有島武郎研究者、中国の啓蒙的紹介者の道をたどり、どのような経緯と事情があってなのかは不明であるけれど、ユダヤ陰謀論者の増田正雄と国際政経学会へと接近していたことがわかる。

しかもこれは既述しておいたように、増田は柳田国男のところに出入りし、高楠順次郎の『知識民族としてのスメル族』をもたらしていることからすれば、高楠ともつながっていたと思われる。これらに加えて、『文芸市場』や文芸資料研究会を主宰し、昭和艶本時代を築いた梅原もまた、大東亜戦争下で科学技術振興会を設立し、陸軍の仕事に従事していたと伝えられているので、『文芸市場』関係者もまた同様の軌跡をたどったのではないだろうか。

大東亜戦争下における奇怪な言説と同じくするような奇怪な転向というより他にないが、それはまた出版社における奇怪な書籍の刊行とも共通している。そうした作家や著者の動向と出版社も寄り添っていたことになり、その謎も実態も検証されることなく、戦後の出版業界も始まっていったと考えるしかない。なお井東の場合は静岡大空襲によって亡くなったとされるので、戦後の出版には関わっていない。

またここで「東亜文化叢書」の著者にふれておけば、1と2の実藤恵秀は中国研究者で、竹内好たちの中国文学研究会に参加し、戦後は早大教授となっている。3の西本白川は上海で活躍した中国通のジャーナリスト西川省三で、東亜同文書院を卒業後、日露戦争の通訳を務め、戦後は同書院の中国語教師となり、週刊『上海』を創刊し、反辛亥革命の論陣をはったという。

だがこの二人と井東がどのような関係にあったのかは詳らかではない。
ちなみに「東亜文化叢書」の5から9も以下に挙げておく。

5.徳齢女士 実藤恵秀訳 『西太后絵巻』下
6.後藤朝太郎 『支那風物志』第1(風景篇)
7.井坂錦江  『水滸伝と支那民族』
8.山下草園 『日本布哇交流史』
9.後藤朝太郎 『支那風物志』第2(民芸篇)


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