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古本夜話704 藤岡通夫『アンコール・ワット』と「東亜建築撰書」

本連載680で、農業書の養賢堂も南洋関連書を刊行していることにふれたが、それは建築書の分野にあっても同様で、彰国社からも「東亜建築撰書」が出されている。

 この「撰書」に関しては本連載158「龍吟社と彰国社」で言及し、彰国社が戦時下の企業整備で龍吟社に統合されたこと、それゆえにそのうちの田辺泰の『日光廟建築』が龍吟社からの刊行となったことなどを既述しておいた。その後、昭和昭和十八年の彰国社版「同撰書」の藤岡通夫『アンコール・ワット』を入手したこともあり、ここでもう一度取り上げてみたい。

 「東亜建築撰書」は『日光廟建築』巻末の「第一次目録」によれば、二十八冊が挙げられ、既刊は九冊となっているので、まずはそれらを示す。

1 田辺泰 『徳川家霊廟』
2 鷹部屋福平 『アイヌの生活』
3 城戸久 『名古屋城』
4 藤岡通夫 『アンコール・ワット』
5 太田博太郎 『法隆寺建築』
6 杉山信三 『朝鮮の石塔』
7 岡大路 『支那庭園論』
8 鷹部屋福平 『北方圏の家』
9 田辺泰 『日光廟建築』

 9の刊行年月は昭和十九年九月なので、出されたとしても、一、二冊だったのではないかと推測できる。矢崎高義『満洲の住居』、藤島亥治郎『台湾の建築』、村田治郎『蒙彊の建築』などは手にとってみたいと思うが、おそらく出版されずに終わったのではないだろうか。

 その「目録」の裏ページには「同撰書」の「刊行の辞」が次のようにしたためられている。

 大東亜共栄圏確立と大東亜民族解放の黎明に直面した我等には、今やその盟主としての一大決意と反省とが要望される。決意とは断乎として共栄圏の繁栄を確保すべき日本精神の宣揚に邁進することであり、反省とは盟主としての栄冠に酔ふことなく、その内容をして益々堅実なるものたらしむる実力の涵養である。
 永く欧米の圧制と術策の中に虐げられた東亜は、今こそ誤れる過去の覊絆から離脱して、東亜に帰るべき時である。想へば東亜文化の発祥は欧米の文化より遙かに古く、その文化的所産たる建築の如きも、古来高度に完成されたものゝ存在を見るのである。

 これは「刊行の辞」の半分ほどだが、「同撰書」のキャッチコピーの「大東亜文化の性格把握への指針」というコンセプトが了解されるであろう。またそのようにして、日本のみならず、先に挙げた満洲、台湾、蒙彊などの大東亜共栄圏の建築も、あらためて「把握」されなければならないのだ。

 それを目的として藤岡の『アンコール・ワット』も出版されている。彼は東京工業大学建築学教室に籍を置く建築史家で、戦後は教授となり、後に日本工業大学長も努めている。その「序」によれば、大東亜戦争の進展に伴い、所謂南方物の出版が増加し、翻訳書乃至それに準ずる書も次々に現れる」に至っている。だがそれらは内容が疑わしものも少なくなく、とりわけアンコール遺跡研究については急速な進歩を見ているだけで、一九二七年以前の著書は誤説も含まれ、翻訳の価値もないとされる。確かに私が知る限りでも、グロスリエ『アンコオル遺蹟』(新紀元社)、同『アンコール・ワット』(湯川弘文社)、ケーシイ『シバ神の四つの顔、アンコールの遺跡を探る』(南方出版社)、フシエ『仏教美術研究』(大雄閣)、ドラボルト『カンボヂヤ紀行』(青磁社)などが出されていて、「南方物の出版が増加」しているのがわかる。

 藤岡にしても、前年に写真集を主目的とする『アンコール遺跡』を刊行していたようで、いってみれば、大東亜戦争下の南部仏印のアンコールワットルネサンスが日本で起きていた印象すらも受ける。この『アンコール・ワット』も写真を四九、挿図を四二も配した一冊で、南方幻想を喚起させる仕上がりとなっている。

 ムオーというフランス人科学者が一八五六年から六一年にかけて、インドシナ半島を縦貫するメコンとメナム両河沿岸の探検にのぼり、象と虎が住むと怖れられる北方の大森林へと歩を進め、その密林の奥深く埋もれた都市であるアンコール・ワットを発見するに至ったのだ。そうしてその後、多くの学者たちが遺跡や塔や彫刻を手がかりとして、アンコール・ワットの謎に挑んでいたのである。それらは写真や挿図からも浮かび上がってくるし、アンコール・ワットがフランス人にとっても、謎と魅惑の地だったことを伝えている。アンドレ・マルローにとっては盗掘の地に他ならなかったことを想起させる。

 この藤岡の『アンコール・ワット』は思いがけずに、それらのことをテーマとする藤原定朗の『オリエンタリストの憂鬱』(めこん)を再読してみようという思いをもたらしてくれたことを、ここに記しておこう。
オリエンタリストの憂鬱

なお「東亜建築撰書」10として、沢島英太郎『桂御山荘』が出されていることを付記しておく。


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