出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話705 島村抱月『文芸百科全書』と隆文館

前回久し振りに草村北星の龍吟社にふれたので、これも本連載151などで言及している北星が以前に設立した隆文館の書物に関する一編を挿入しておきたい。

 これは本連載71でも既述していることだが、かつて「『世界文芸大辞典』の価値」(「古本屋散策」4、『日本古書通信』二〇〇二年七月号)を書いたところ、谷沢永一から便りがあった。それは実にうれしい、辞典は戦前のものが優れていて、『世界文芸大辞典』はその最たるもので、しかもこの原型は早稲田文学社の『文芸百科全書』に求められるとの指摘もなされていた。

 現在であれば、すぐに「日本の古本屋」にアクセスし、『文芸百科全書』の在庫の有無を確かめたりしたであろうが、十五年も前のことなので、そのうちに古書目録で出会うだろうと思っているうちに、当の谷沢は鬼籍に入ってしまうし、実際に古書目録で見つけ、入手したのは十年以上経ってからのことだった。しかもそれは早稲田文学社刊行ではなく、隆文館からの出版だったのである。

 この『文芸百科全書』は四六倍判、三段組、二千頁近くに及ぶ大冊で、日本も含めた世界文学、演劇、美術、それぞれの名著などの解題と文芸家人名辞彙も含み、明治四十二年十二月に刊行されている。このジャンル別辞書という大冊の企画は、日本で最初に本格的な百科事典を発行していた同文館を範としていると思われるし、同文館は明治三十八年から『商業大辞書』や『教育大辞書』を出版し始め、続けて哲学、経済、法律、農業、工業の「七大辞書」に及んだ。これらに関しては拙稿「近代出版史における同文館」(『古本探究2』所収)を参照されたい。
古本探究2

 つまり『文芸百科全書』は同文館の企画に挙がっていなかった「文芸」版を意図したと考えられる。その「序」は早稲田文学社名で記され、同書編纂計画発表は明治三十九年で、一年以内に完成するつもりだったが、三年以上を要したと始まり、その間の出版状況にもふれているので、それを引いてみる。

 一時出版界に辞書熱といふものが起こつて、随分色々の辞書類が出た。そして本書の如きも幾分は辞書の性質を帯びてゐるから、此の流行が本書の上に及ぼす影響は何うであらうかと思はれた。また同じく出版界に於ける予約出版といふことに、種々の失敗と弊害とが伴ふやうになり、為に大部物の出版に頓挫を来たす恐もなくはなかつた。

 それが何であったかも具体的に語られている。当初版元とされていた金尾文淵堂が『文芸百科全書』の「出版者たるべき負担に堪へ難い不幸に遭遇し」てしまったのである。これも拙稿「金尾文淵堂について」(『古本探究3』所収)で言及しているが、金尾文淵堂は島村抱月によって再興された『早稲田文学』の発行所となる一方で、『仏教大事典』を予約出版で企画したが、辞書の規模の変更と刊行延長もあって、明治四十一年に不渡りを出して倒産に至っている。これが引用部分の背景にある事情だった。そのことから、一時は「早稲田文学社の独自経営とする」に至ったけれど、その後隆文館と協約し、同館からの出版となったのである。
古本探究3

 そして奥付に著作者として早稲田文学社、その代表者として島村瀧太郎=抱月、発行者として隆文館、その代表者として草村松雄=北星の名前が記されることになったのである。それゆえに「序」をしたためたのは抱月自身と推定できるし、実質的な編集主任が本連載238の楠山正雄だったことも明記されている。楠山は『文芸百科全書』の編集経験をベースとして、後にこれも本連載238で取り上げている冨山房の『国民百科大辞典』を編纂するに及んだのであろう。

 また「凡例」には「各秘蔵の図書絵画貸与者として、早稲田文学図書館の他に、伊原青々園、市島健吉、巌谷小波、小山内薫、永井荷風、安田善之助、松居松葉、水谷不倒の名前も列挙され、『文芸百科全書』の成立が大学図書館と集古会関係者に支えられていたことも示している。

 それに対して、隆文館はダイレクトに編集に参加しておらず、発行者を引き受けただけだったと思われる。だが隆文館の社史も全集目録も刊行されていないことから、この実価十五円という大冊の『文芸百科全書』が、どのような売れ行きと波紋をもたらしたかについては確認できていない。おそらく日露戦争後の出版で、同文館の実用的辞書類とは異なり、高価な文芸辞典に類することからすれば、売れ行きに関しては苦戦したのではないだろうか。

 この『文芸百科全書』をベースにして、『世界文芸大辞典』全七巻が編集されるのは昭和十一年であり、ほぼ三十年後ということになるのだが、『中央公論社の八十年』には五十周年の記念出版として記されているだけで、どのような経緯と事情によっているかは定かではない。谷沢がいうように、内容の充実とは逆に、これまた売れ行きがよくなかったことを示唆しているように思われる。



[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら

odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com