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古本夜話718 江上波夫と東亜考古学会蒙古調査班『蒙古高原横断記』

 本連載357の『瓜哇の古代芸術』や前回の『大同の石仏』ではないけれど、昭和十年代から、「東亜」に関する図版写真入りの報告書や研究などが多く出されていくようになる。そのような一冊が、これも本連載706の日光書院から、昭和十六年に刊行されている。それは東亜考古学会蒙古調査班による『蒙古高原横断記』で、初版は十二年に朝日新聞社からの刊行である。これは未見だが、「忽ち売切れ絶版」となってしまったので、日光書院での「変改補訂」版の出版になったようだ。しかしそれでも入手したのは十七年二月の第三版であるから、大東亜戦争下における確実な需要と読者の存在が見こまれていたことになろう。例によって、この一冊も浜松の時代舎で購入している。
f:id:OdaMitsuo:20171011115622j:plain:h120(『蒙古高原横断記』、朝日新聞社版)

 この『蒙古高原横断記』にふれる前に、まず東亜考古学会のことを示しておこう。日本考古学協会編『日本考古学辞典』(東京堂出版、昭和三十七年)の中にそれを見出したからである。
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 東亜考古学会 とうあこうこがっかい [一般]大正14年(1925)に、時の京都大学教授浜田耕作・東京大学助教授・北京大学教授馬衡ら相はかって、東亜諸地域の考古学調査・研究ならびに普及を目的として創立した学会。昭和2年(1927)3月東京大学において第1回総会を開き、4月南満州の貔子窩において先史遺跡の発掘を行ったのを始めとして、以後、大連・北京・東京・京都などで学会を催し、また南満州の牧羊城・南山里・営城子・羊頭窪、北満州の東京城・熱河赤峯・蒙古ドロンノール・中国河北省邯鄲・山東省曲阜・山西省万安その他で城址・墳墓などの発掘を行った。それぞれ報告書を刊行し、東亜考古学会の発達に寄与したが、終戦後はもっぱら対馬・壱岐・北海道各地の調査に力を注いでいる。

 まさに『蒙古高原横断記』はこの東亜考古学会の「報告書」のひとつということになろう。この調査は昭和六年と七年の二回にわたって、家蒙古錫林郭爾(シリンゴル)、及び鳥蘭察布(ウランチャップ)地方の地質、人類、古文化研究を目的として行われたものである。その範囲は見返しの「東亜考古学会蒙古調査班旅行概要図」に示されているように、東は大興安領東麓より西は陰山山脈の西端の戈壁(ゴビ)に及ぶ内蒙古高原の全域にわたり、横断している。学術的報告書は東方考古学叢刊の『蒙古高原』二巻として刊行予定となっていたが、刊行されず、前篇だけが座右宝刊行会から出されたようだ。その一方で多くの写真と図表を添え、タイトルに「横断記」を付した旅行記といえる『蒙古高原横断記』が出版されたのである。

 その第一章が昭和六年、第二章が十年の記録で、当時の探検隊員は前者が横尾安夫、江上波夫、松澤勲、竹内幾之助、後者が赤堀英三、江上だった。日光書院版は第三章の「蒙古雑記」を含め、三一八ページからなり、その特徴は五〇ページ余に及ぶ、百枚近い口絵写真と七〇の図版で、それらを見ていると、蒙古と大東亜共栄圏幻想を浮かび上がらせているようにも思えてくる。旅行記の記述はいずれも興味尽きないが、とりわけ図版が施された部分は本連載665と絡んで、奇妙なリンクをさえ想起させてくれる。

 それは第三十四図の「オロン・スム土城内に遺存する景教十字墓石」で、徳王を盟主とする自治政府が置かれた百霊廟盆地の近郊にあった。「オロン・スム」とは「沢山の廟」を意味し、土壁に囲まれた古城だった。その城内には多くの建築物が崩壊したかたちで残り、かつては壮麗な建物が並んでいた往時を偲ばせていた。しかしその中でも、「我々の興味を最も惹いたのは、北壁に近く存在する一つの建築址の周囲に十字架を刻んだ所謂景教の十字墓石が立ち竝んでゐたことであつた。従つてそこが元時代のクリストたる景教の墓地址或は寺院址たることは殆んど明白であつた」。

 そしてこの土城址は元代の熱烈な景教徒の王族によって築造されたものだとの説明がなされ、その景教十字墓石の図版が添えられて、「この土城址は今回の内蒙古旅行中我々の遭遇した最も重要な遺跡の一つであつた」し、「素晴しい発見」とまで呼んでいる。これは執筆者が明記されていないけれど、江上波夫と考えて間違いなかろう。ここで江上は佐伯好郎の中国における景教碑発見譚を重ね合わせたにちがいないし、それが戦後の『騎馬民族国家』(中公新書)としてまとめられる騎馬民族日本征服説のコードの一端を形成することになったのではないだろうか。

騎馬民族国家

 しかしこの旅行記成立のバックヤードも記しておくべきだろう。これは触れなかったが、前回の『大同の石仏』は蒙古の一部族の拓跋族が残したものとされ、小川晴暘は同じく百霊廟の寺院も訪ね、蒙古人の生活と雲岡の石仏、日本の飛鳥奈良時代の彫刻との共通性を考え、蒙古人と日本人は同じ血が通っているのではないかとの思いも抱いたのだった。その北支から蒙古の旅と生活は現地軍、特務機関、善隣協会、大門領事館、東方文化研究所、晋北政庁の世話になったと「後記」に記されている。

 それは時代が先行するにしても、『蒙古高原横断記』も同様で、日光書院版の「例言」には当時の張家口領事館、満鉄、支那駐屯軍、関東軍、参謀本部などの「激励と助力と親切」、「諸氏の恩恵」がしたためられている。この事実は東亜考古学会蒙古調査班がそれらと併走し、大東亜共栄圏のパラダイムに添うかたちで学術調査を敢行したことを物語っていよう。その残映が江上波夫の『騎馬民族国家』だったのかもしれない。

 なお前回も名前を挙げておいた東方文化研究所の水野清一に『東亜考古学の発達』(大八洲出版、昭和二十三年)があり、これに戦後の成果が総まとめされているようだが、まだ入手に至っていない。


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