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古本夜話722 尾崎士郎『成吉思汗』

 前回、戦後に井上靖や司馬遼太郎が西域小説を書いていたことにふれたが、それは彼らだけでなく、大東亜戦争下においてはいくつもの作品が発表されたと考えられる。その典型としての尾崎士郎『成吉思汗』が手元にある。これも例によって、浜松の時代舎で購入してきた一冊で、昭和十五年に新潮社から出され、小穴隆一装幀・挿画による、まさにテムヂン=成吉思汗を主人公とする小説に他ならない。本体は鮮やかな黄色で覆われ、その中に馬に乗る成吉思汗が描かれている。
成吉思汗(外函)

 私は以前に「尾崎士郎と竹林書房」(『古本探究2』所収)などの、尾崎に関する論考を書いているけれど、時代舎で見るまではこの小説を知らなかったし、『日本近代文学大事典』の尾崎士郎の立項にも挙げられていなかった。そこで、『成吉思汗』には折り込み地図「蒙古及び支那の一部」に続けて「序」が置かれていることもあり、目を通してみると、尾崎が昭和十四年秋に蒙古を訪れていることを知った。そしてこれが「蒙疆へ入つて包頭から黄河のほとりを彷徨ひ歩いてゐるとき、私は自然にあふれるやうなものをかんじ」、「茫乎たる空想の世界へと僅かに片足を踏み入れた」ことにより、成立した作品であることも了承した。また「作者の意図」が成吉思汗の「無限にひろがつてゆく情熱と野心とはもはや今日においては古典的物語ではなく、アジア民族の将来に一つの大きな方向を暗示してゐる」ことに由来するという次第についても。
古本探究2

 『成吉思汗』は蒙古部族の葛藤の中から生まれたテムジンが悲劇的な宿命を克服し、成吉思汗となり、蒙古民族を率いて北京に向かうために万里の長城を突破するところまでが描かれている。これは「第一部」で、「第二部」の完成も近いとしているが、それは刊行されなかったはずだ。それはともかく「第一部」の中で、尾崎の蒙古に対してのイメージの投影を抽出してみる。蒙古の騎士は風習は伝来の精悍な気質と性格に加え、漂泊生活の最も自然に適合した形式だったと定義した後、尾崎らしい感慨を書きつける。

 あゝ、それにしても涯しなき游牧のたのしさよ、星の浄らかな夜空の下を駱駝の群れに荷物を一杯背負はせ、水と青草と森かげを慕つて行方定めぬ漂泊の旅をつづけてゐる彼等の姿ほど世に美しいものがあらうか。自然の中に生きてゐる彼等が部族の頭目に対して絶対の信頼を寄せてゐることはいふまでもない。彼等の統率力は権力と武力の権化であり、その前に生命をさらけだすことは游牧の民の誇でもあれば喜びでもあつた。

 ここにこの『成吉思汗』という物語のコアが集約されているし、それを尾崎は日本の時代小説のような体裁で進めていく。これは未読なので断言はできないけれど、昭和十三年に『石田三成』(中央公論社)を刊行していることも影響しているのではないだろうか。
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 また尾崎の小説としては異例だが、巻末には自らの「解説―私的認識による」が付されている。そして彼が蒙古において体験した「茫乎たる空想の世界」が具体的に語られている。それは「成吉思汗は義経なりといふ説がある種の史的根拠をもつて台頭しつつあることについても、完全にこれを覆へすに足る材料がないかぎり正面から否定さることは必ずしも正当ではない」という文言であり、実際にその言説の提唱者の小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』の一節も引かれている。小谷部に関しては本連載108で既述している。

 これに蒙古伝説における黄河の夕陽に託される生命力の象徴としての成吉思汗が重なる。それは成吉思汗研究者にとって必須の『元朝秘史』(岩波文庫)から成吉思汗と耶律楚材(ヤリソザイ))との出会いを引き出し、後者を文化的協力者として位置づけ、それをもって成吉思汗が「欧亜両大陸にまたがる彼の版図は世界の三分の二」に達していたことになる。

元朝秘史

 様々な成吉思汗伝説が尾崎の『成吉思汗』の「第一部」へと流れこみ、その人間としての完成までが描かれたわけであるが、尾崎がこの「解説」を付したのは、「第二部」への架け橋の意味だと考えられる。それは「あれほど強大な勢力と組織を持つてゐた大モンゴル王国が何故に今日あるごとく見るかげもなく衰退してしまつたかといふことについて」、「私にとつてはつひに一つの謎である」からだ。それに関して、尾崎は成吉思汗がヨーロッパ後略の際に、海上権を獲得しておらず、物質の補充ができなかったことにあるのではないかという提起をしている。

 とすれば、尾崎の描こうとした「第二部」とは、支那攻略から西征に移つて、ロシアを攻略し、ヨーロッパ全土を震撼させるところに及んで、はじめて全貌をあらはすことになる」はずだったと思われる。それは日清、日露戦争を経て、大東亜戦争へと向かった昭和十年代後半の日本状況とも重なってしまう。しかし『成吉思汗』刊行の翌年には太平洋戦争が始まり、十七年には日本軍はミッドウェー海戦で四空母を失い、ガダルカナル島から撤退し、まさに海上権を失おうとしていた。そのような戦争状況の中にあって、『成吉思汗』の「第二部」は書かれずに終わったことになろう。


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