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古本夜話731 昭和十七年の『大興安嶺探検』

本連載719などの今西錦司がモンゴルの張家口に新設された蒙古善隣協会の西北研究所長として迎えられたのは昭和十九年四月で、京大からも所員が召喚された。それには前史があるので、たどってみたい。

 昭和十四年に今西は、会長を羽田亨京大総長とする京都探検地理学会を発足させる。そして十六年に京大の興亜民族生活科学研究所にいた今西を隊長、そこで彼の助手だった森下正明を副隊長とし、ミクロネシアのポナペ島学術調査隊が送り出される。その十人のメンバーには京大の学生だった梅棹忠夫、藤田和夫、伴豊、吉良龍夫、川喜田二郎たちがいた。それはポナペ島が日本の委任統治領に属し、南洋興発という会社がサトウキビを栽培していたことによっているが、それはこの調査隊も南進論とリンクしていたこと、及び実質的には翌年の大興安嶺探検のためのトレーニングを意味していた。この調査隊レポートは未見であるけれど、今西編著『ポナペ島―生態学的研究』(彰考書院、昭和十九年)として刊行されている。

 昭和十七年に、これも今西を隊長とし、前出のメンバーを主とする大興安嶺探検が送り出される。それは五月から七月にかけてのことで、本田靖春の『評伝今西錦司』においても、第4章「地図の空白部」として描かれている。そこにはこの探検隊が満洲国治安部(軍事部)と関東軍の許可が必要で、治安部からその資金として二万五千円が出され、本隊、支援隊の他に、地理的空白地帯を突破する漠河隊が新たに付け加えられたことが述べられている。

『評伝今西錦司

また戦後になってのことだが、『大興安嶺探検』(毎日新聞社、昭和二十七年)も出されている。後者は探検後の昭和十九年に刊行されるはずだった報告書の再刊で、文部省研究成果刊行助成金を得ての千部の出版であった。それゆえに入手困難になっていたところ、昭和四十五年に責任編集梅棹忠夫『砂漠と密林を越えて』(「現代の冒険」1、文藝春秋)に復刻収録されるに至った。しかし毎日新聞社版『大興安嶺探検』自体が探検後に脱稿され、戦災により出版社もろとも焼失した報告書の、戦後のリライト版である可能性も否定できないし、文藝春秋版も抄録であることを断っておくべきだろう。

大興安嶺探検(毎日新聞社版)f:id:OdaMitsuo:20171022115452j:plain:h110

それをふまえ、文藝春秋版を読んでみる。その前に地図も収録されている大興安嶺をラフスケッチしておこう。戦前の日本のアジア大陸認識において、大興安嶺は最大の秘境であり、探検の聖地のようなイメージを伴っていた。とりわけハルピンからシベリアに通じる鉄道以北の大興安嶺北部は、北海道を上回る広さの地域が密林に覆われ、一大高原をなしていて、オロチョンと呼ばれる狩猟民=北方ツングース民族を除き、ほとんど定住集落もなく、交通路もなかった。

だがそれゆえに科学的にも軍事的にも探検の機会が待ち望まれたけれど、大陸性気候の極寒地で、夏は気温が上がるにもかかわらず、地下には永久凍土層が広がり、谷筋は湿地、それもスゲ類の株=野地(ヤチ)坊主の間に水をたたえた湿原となっていた。これは馬や馬車による探検には決定的な障害で、昭和七年の満洲国建国以来、軍などの調査隊が北部大興安嶺の踏査を試みたが、すべて失敗に終わっていた。しかし周辺部では測量隊の活動と航空写真の撮影が進み、探検時には北部大興安嶺の最中心部などを除き、水系はほぼ明らかになっていたので、探検の主目的は北部大興安嶺の縦断の達成、航空写真で未撮影の白色地帯の水系の確認に置かれていた。本田の大興安嶺探検に関する章が「地図の空白部」と題されているのはこの事実によっている。

 この文藝春秋版『大興安嶺探検』はまず探検隊メンバーが示され、そのうちの五人の集合写真の掲載がある。それらは今西、吉良、藤田、梅棹、川喜田の五人で、ただちにポナペ島探検隊のメンバーがコアとなっているとわかる。実際に大興安嶺探検隊とは、ポナペ島での北部大興安嶺探検構想から始まっている。これはそれぞれのセクションを吉良龍夫、川喜田二郎、森下正明が分担して書いているのだが、この三人の観察力に充ちた叙述、精密な自然と動物描写、探検における、主従にわたる人間関係や現地の人々の生態などの捉え方は見事なものであるといっていい。とりわけ吉良のナチュラリスト的散文は簡潔に見るべきものを伝えている。探検隊のトラックはシベリア的世界とモンゴリア的世界の境に位置する三河地方の中心地の部落に向かう。探検隊はここで八人のコサックの馬夫や車夫を雇うためだった。その部落の描写を引いてみる。

 ステップの部落は、水のあるところにできる。ドラチェンカの町のまんなかには、大きな泉があって、水くみでにぎわっていた。このあたりを町の中心にして、レンガづくりの役所や商社の建物、丸太組みのロシア風の農家が、まばらに立ちならび、ゆきちがう顔つきの雑多な人間が国境の町らしいふんいきをふりまいた。役所の筆頭は旗公署で、旗という政治単位といい、旗長がモンゴル人であることといい、この三河地方が、ロシア人の侵入以前にはモンゴル人の生活空間であったことをものがたっている。しかし、いまでは、ときおり町の大通りをかけぬけてゆく、とんがり帽子のプリアート・モンゴルが眼を引くくらいで、モンゴル人の数はごくすくない。このプリアートそのものも、移住者で、ロシアの放牧家畜の番人をつとめているにすぎない。モンゴル人の旗長とは名ばかりで、実権は日本人である参事官の手ににぎられ、さらにその黒幕として、特務機関が隠然たる勢力もっていた。町はずれには、わずかながら、日本軍も駐屯していた。

ここには昭和十七年時のシベリア的世界とモンゴリア的世界の境にある「国境の町」の実体が浮かび上がり、本田が『評伝今西錦司』の中で、当時の時代状況を考えると酷かもしれないが、調査や探検の学術的成果だけを称賛するのは視野の狭窄のそしりを免れないとして、書きつけていた一節が思い出される。それは次のようなものだ。

 いまにして振り返ると、朝鮮の白頭山、ポナペ島、大興安嶺、内蒙古と、今西錦司およびそのグループが足跡を記した先々は、いずれも「大東亜共栄圏」の「墓」の跡である。さらにいうなら、彼らの調査・探検は、直接・間接あるいは有形・無形に、帝国主義者およびその追随者になにかしらを負うていた。

それに対するひとつの答えも書きつけている。三河を去る夜に、吉良は岡の中腹に十字架を見つけ、その写真を示しながら、そこには「開拓者の精神」が示されているとし、次のように述べるのだ。

 開拓前線のもつ特有の緊張感は、前戦をよこぎるたびに、いつも強い魅力でわれわれをひきつける。わたくしは、いまさらのように、もうすこし三河そのものを知りたいという欲望を感じた。しかし、前進したいという欲望は、いっそう強い。フロンティア・スピリットは、自然と人間との直面するところにのみうまれる。われわれもまた、みずから自然のなかにわけいって、開拓者の列にくわわりたいのである。そこは、自然がいまなお人間を支配している世界である。

だが「大東亜共栄圏」構想にしても、このような開拓者の「前進したいという欲望」とパラレルに膨張していったことは否めないと思われる。

なお脱稿後に、『大興安嶺探検』は昭和五十年代に講談社から毎日新聞版の復刻が出され、平成三年に朝日文庫化されていることを知ったので、付記しておく。

大興安嶺探検(講談社版)大興安嶺探検(朝日文庫版)


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