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古本夜話732 磯野富士子『冬のモンゴル』

 前回、昭和十七年の『大興安嶺探検』が戦後の二十七年になって刊行されたことを既述しておいた。それは今西錦司の内蒙古レポートも同様で、第二回調査は『草原行』(府中書院、昭和二十二年)、第三回調査は『遊牧論そのほか』(秋田屋、昭和二十三年、平凡社ライブラリー、平成7年)として出版されている。両書とも未見だが、後者は「遊牧論」として、山口昌男編集・解説『未開と文明』(「現代人の思想」15、平凡社、昭和四十四年)に収録され、その所在は知られていたといえよう。

大興安嶺探検(毎日新聞社版)草原行(『今西錦司全集』第2巻所収、講談社)
遊牧論そのほか(平凡社ライブラリー)未開と文明

 しかし同様に西北研究所で過ごした磯野富士子の『冬のモンゴル』も昭和二十四年に北隆館から出ていたけれど、昭和六十一年に中公文庫の一冊として姿を現わすまで、ほとんど知られていなかったように思われる。磯野自身にしても、「文庫版のためのあとがき」で、最初の著書であるけれど、「いかにも子供っぽい書きかた」「若気のいたり」で、「この本のことばかりは、ひた隠しに隠してきた」と記しているのである。
(中公文庫)

 梅棹忠夫の『回想のモンゴル』が同じく中公文庫化されたのは平成三年になってのことだから、それとは関連なく、先んじての文庫化だったと判断できよう。誰がどのような意図で、昭和十九年末から二十年にかけての、女性による内蒙古の民族学的調査である『冬のモンゴル』の文庫化を企画したのだろうか。
回想のモンゴル

 それはともかく、まずどのような状況下に磯野はモンゴルへと赴いたかをトレースしておかなければならない。昭和六年に関東軍による満州事変が起き、翌年に満州国が建国された。中国の東北地方を占める満州国の版図には、前回の大興安嶺の東側に位置するモンゴルのゲシュクトン旗やオーニュート旗も含まれていた。当時のモンゴルは漢人の入植によって牧地を奪われたモンゴル人たちの間に自治運動が起きていた。これを利用して、日本は内蒙古にも勢力を伸ばそうとし、昭和十四年に西ニスット旗長デムチュクュドンルプ=徳王を主席とした蒙古連合自治政府を創立した。だが自治政府といっても、実際には日本人の最高顧問を始め、各旗や連合自治政府の軍隊にも、日本人や日本軍人の顧問が配属されていた。これらの事実は本連載718、719や前回の『大興安嶺探検』でも見てきたばかりだ。

 徳王のほうは中国の蒋介石政府の貢献を得て、モンゴル人による自治政府樹立を志向していたが、中国側の支持を得られず、やむなく日本の支援に頼ることになり、それは現実的に日本の軍事的圧力に屈したことを意味していた。このようなモンゴル状況下において、張家口に西北研究所が設立され、磯野夫妻は、これも本連載718の江上波夫からの誘いを受けたのである。彼女の夫は法社会学者だったが、戦時体制下の日本では社会の科学的分析はまったく不可能な状態であったからだ。

 そうして磯野夫妻はモンゴルへと赴き、巻末の地図にも明らかなように、張家口から貝子廟、そこから西ウジムチンへと向かい、北京を経て、張家口へ戻る調査旅行を行なったのである。それは昭和十九年十一月から二十年三月にかけてで、夫はモンゴルの法慣習、妻はモンゴル婦人の生活史と民間伝承研究を目的とするものだった。実際に『冬のモンゴル』の中で、著者はそれらの研究計画の細目も挙げ、実施しているし、民間伝承に関しては「火祭りとお正月」という章を立て、具体的に言及している。それは四ヵ月の間の限られたモンゴルの友人たちから不自由な言葉で聞き出したものにすぎず、すべてが中途半端だけれど、「それらの資料が集められた背景、つまりいかなる事情のもとにいかなる人物より得た報告であるか」を明らかにしておくことが、「それらの資料の持つ価値の限界」をはっきりさせるために必要だとする視座に基づいている。

 そして先の「あとがき」においても、次のように記している。

 もちろん、私たちがあのような調査を行うことができたのも、内モンゴルが日本の占領下にあったからこそであった。個人的には政府や軍部とは全く無関係な研究のつもりであったが、西ウジムチンに入ることができたのは、その土地の「日本人顧問」の方々のお世話を受けたからに外ならない。あの方々にしても、主観的には、モンゴル人のためにも、日本の指導に必要であると信じておられたのであろう。
 この本に出てくるモンゴルの友人たちが、私たちをどう見ていたのかは、知るすべもない。ただ、一つの国が他の国を直接に、あるいは間接的にでも支配している場合には、それぞれの国に属している個人の間の友情は、本当に成り立ちえないことを痛感するとともに、あの人々が対日協力者としてひどい目にあわなかったことを切に願うばかりである。

 また「日本にかぎらず、以前の民族学調査というものが、多く植民地支配の副産物であったことは否定できない」との言も付け加えられている。このような言葉は今西錦司や梅棹忠夫からは伝わってこないものである。

 海野弘は『陰謀と幻想の大アジア』の中で、同じ西北研究所を背景とする『冬のモンゴル』が、梅棹の『回想のモンゴル』と対照的な「戦時の研究への深い反省」を指摘している。それは戦後を迎え、磯野が本格的なモンゴル研究に進み、同書の最後の北京のところに出てくるモスタールト神父の『オルドス口碑集』(平凡社東洋文庫)、及びラティモアの『モンゴル』(岩波書店)の翻訳に従事し、続けて『モンゴル革命』(中公新書)を著わしていることと密接にリンクしているのだろう。


オルドス口碑集 f:id:OdaMitsuo:20171203200253j:plain:h110

 なおこれは本連載145でもふれているが、安彦良和『虹色のトロツキー』(潮出版社、中公文庫、双葉社)の主人公は、日本人とモンゴル人の混血とされていることも付記しておく。
虹色のトロツキー


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