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古本夜話736 日本公論社とシチェグロフ、吉村柳里訳『シベリヤ年代史』

 大東亜戦争下において、その大東亜共栄圏幻想の拡大とパラレルに、この時期にしか刊行されなかったと思われる翻訳書を見ることができる。そのような一冊として、前回の『蒙古社会制度史』と同じく、シチェグロフの『シベリヤ年代史』も挙げられる。

 しかもこちらは菊判で、「シベリヤ年表」と「索引」を合わせると、千ページを超える大冊である。初版は二千部、昭和十八年十二月に川越一夫を発行者とする日本公論社から出されている。この版元は神田一ツ橋の教育会館に置かれ、本連載192で、ヴァン・ダインなどの探偵小説の刊行を既述している。それを、福島鋳郎編著『[新版]戦後雑誌発掘』(洋泉社)所収の昭和十九年三月時点での出版社の企業整備状況を確認してみると、本連載592の東洋書館に吸収合併されている。

 この事実からすれば、東洋書館は企画院の近傍にあり、大東亜戦争下に戦時経済、産業書などの刊行をしていたのだから、日本公論社もそれに類する出版社だったように推測される。それが意味することは、企画院などの政府官庁からの出版助成金を得ての刊行であり、それでなければ、十二円という高価な設定がなされているにしても、製作費の回収すらも難しいだろう。

 『シベリヤ年代史』を最初に知ったのは、加藤九祚の」『シベリヤに憑かれた人々』(岩波新書)の中の「はじめににおいてで、そこには次のように書かれていた。
シベリヤに憑かれた人々

 昭和十八年来、シチェグロフ著『シベリヤ年代史』が吉村柳里訳によって日本公論社から刊行された。千ページを超える大冊である。これによると、ロシア人エルマクがはじえてシベリア遠征の途にのぼったのが一五七八年であり、シベリア征服の完成が一五八二年、それから二年後の八月五日夜、エルマクは敵の夜襲にあり、「イワン雷帝の贈物たる彼が身につけていた甲冑の重みでイルティシュ川の波間に消え去った」。
 それから約四百年、シベリアは第二次世界大戦後の訳三十年間に飛躍的に変貌した。

 これらの記述からして、当然のことながらこの後の本文で、「シベリヤに憑かれた人々」としてのシチェグロフや吉村柳里が言及されるのかと期待していたが、それだけで終わっていた。それはジョージ・ケナンの『シベリアと流刑制度』(左近毅訳、法政大学出版局)も同様で、その豊富で生々しいフロストの挿図とともに、十九世紀末のシベリアを浮かび上がらせていたが、『シベリヤ年代史』は「日本語による関連文献」に挙げられていただけだった。ただ昭和五十年に原書房からの復刻を知らされたのではあるが。
シベリアと流刑制度

 その日本公論社版を古書目録で見つけたのは最近で、古書価は三千円だった。送られてきた『シベリヤ年代史』
は何と厚さが七センチに及ぶ大冊だった。「訳者序」によって、著者や原書に刊行に関してラフスケッチしてみる。著者のシチェグロフは一八五三年生まれで、ペテルブルグ文化大学を卒え、シベリアの中学校で教鞭を執っていた歴史家である。

 シチェグロフは最初シベリヤ歴史の編纂を企図して資料を蒐集したが、当時歴史家によつて資料が十分に整理せられず、余りに複雑多岐、異説多かりしため、先づ資料の整理より着手せざるべからざるを感じ、シベリヤ年代史の編輯に着手した。彼はこの年代史を纏むるに六ヶ年の歳月を費した。然るに年代史を出版して間もなく不幸病魔の犯すところになり夭折したので、彼の名は余り世間に知られずに終つた。本書が彼の唯一の記念物として残されたものである。彼が最も困難なる且つ特殊なる事業を遂行せる点に於て、本書は今日に至るまでシベリヤ歴史を研究するものにとつて欠くべからざる資料とさせられている。

 原書は一八八三年にシベリアのイルクーツクで出版されたということからすれば、著者のシチェグロフはこの大著を二十代で脱稿し、三十そこそこで、まさに「夭折した」ことになる。その事実は同書が一八八二年までのシベリアの歴史を扱っていることを示している。また『シベリヤに憑かれた人々』の中で、名前が挙げられていたイワン雷帝派遣のエルマクがシベリアを征服したのは一五八二年であるから、それ以前の歴史も含んでいるにしても、「的確に云へばシベリヤ三百年の年代史」と称することもできる。

 実際に、様々な編纂者の名前を付したシベリア年代記に基づくシベリア歴史の本格的研究は十八世紀に始まり、それらの古い歴史を整理し、正確に位置づけ、統合することによって、シチェグロフは新しいシベリアの歴史を提出したといえよう。そこにはシベリアでのコザックによる原住異民族との闘争、及び統治と失敗のディティールが述べられる一方で、シベリアの地理、歴史、風土、資源などの調査のための遠征隊、探検隊、学術調査団の数十回に及ぶ試みも、年代別に紹介されている。そうしてシベリアの全都市と村落の発生と発展の経過、産業開発と通商路開拓の歴史、宗教と教育の普及状況、地震や洪水などの天変地異への言及に加え、流刑、家族、異民族といった問題に関しても、詳しく説明されるに至る。それゆえに訳者がいうように、「本書はシベリヤ研究家にとつて好個の参考資料」に他ならないのである。

 しかも先述の一四〇に及ぶ「シベリヤ年表」と「索引」、掲載されている四六の略図と写真は原書にはなく、邦訳書のオリジナルであり、訳者の吉村柳里がこの一冊に投じた多大な労力にオマージュを捧げたくなる。
 大東亜戦争下において、この『シベリヤ年代史』の翻訳と編纂に全力を注いだというしかない吉村とはどのような人物なのであろうか。だが同書にはその手がかりが残されていない。


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