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古本夜話737 桑名文星堂とロストウツエフ『古代の南露西亜』

 前回の『シベリヤ年代史』が刊行された昭和十九年に、やはりロストウツエフの『古代の南露西亜』が坪井良平、 本亀次郎訳で、京都の桑名文星堂から出版されている。函の有無は不明だが、並製の菊判四二〇ページ、初版二千部、定価は十二円五十銭で、千ページに及ぶ『シベリヤ年代史』よりも高い。だがシベリアはともかく、こちらは南ロシアの古代がテーマだし、奥付発行日は十二月二十日であるから、よく出版したというべきだし、これも出版助成金を抜きにしては語れないだろう。
古代の南露西亜 (『古代の南露西亜』)

 しかも口絵写真に見られる図版は三三ページに及び、大半が紀元前の古代遺物である人物像、銀の壺、各種青銅器、金銀鏡、黄金盌などで占められ、『古代の南露西亜』が歴史書というよりも、考古学の色彩が強いことを示している。それは次のような「原著者序文」にも明らかである。

 私はこの小篇に於て、史前時代から原史時代を通じ、更に古典時代の民俗移動期までに及ぶ「南ロシア地帯の一つの歴史」を描かうと試みるのである。私が歴史といふのは古典時代の作者によつて保存され且つ考古学的資料によつて証明される貧弱なる証拠の羅列でなくして、一般の世界歴史に於て南ロシアが演じた役割を確定し、人類の文化に対する南ロシアの貢献を強調しようという企図なのである。

 これに加えて、巻末の最重要な考古学的発見地を詳細に付した折り込みの「南ロシア略図」を見ると、大東亜共栄圏とはダイレクトにつながらない歴史と考古学専門書がよくぞ出されたという感慨を、あらためて覚えてしまう。それゆえに専門的な内容には踏みこまず、「訳者序文」のほうにふれてみる。そこでは南ロシアの考古学が日本で認識されたのは、大正初年の梅原末治『古代北方系文物の研究』の「序文」においてだとされる。梅原は考古学者で、京大教授である。

 この南ロシア考古学の概括的研究書として挙げられているのが、いずれも未邦訳のミンス『スキウティア人とギリシャ人』、エベルト『古代に於ける南ロシア』、それに翻訳に至ったロストウツエフの同書ということになる。ロストウツエフは古代史とラテン語を専門とするロシア有数の学者で、一八七〇年南ロシアのキエフに生まれ、サントペテルスブルグ大学にて学位を受け、一九一八年にソ連を去るまで同大学の教授、ロシア学士院会員、ロシア帝室考古学会副会長であった。それからイギリスを経て、二〇年にはアメリカに渡り、二五年以後はエール大学の古代史、及び考古学の教授に就任している。

 ロストウツエフの歴史的視座はギリシア、ローマに通じた背景のもとに、古代の南ロシアのスキウティアとサルマティア芸術と文化的要素は、西方の影響を受けた東方イラン文化の潮流の現われだとするものである。それがさらに東に向かって支那に入り、支那古代芸術と文化を構成する要素ともなった。かくして「訳者序文」は『古代の南露西亜』が「南ロシアの草原を舞台として、イラン潮流が西方のギリシア的潮流と相交錯し発展したその相貌―古代の南ロシアに於て展開した西欧文化種々相を描き出した」著作と位置づけている。また現在もドイツとロシアの「国を賭けての戦ひの場」とし、「激しい死闘を続けている場所」が「南ロシア草原」に他ならず、過去から現在に至るまでの「南ロシア草原の重要性」が強調され、それはこの時期における『古代の南露西亜』翻訳出版の意義を謳っていることになろう。

 この坪井と榧本の両名で書かれた「訳者序文」によれば、すでに昭和三年に二人でこの翻訳を手がけていたこと、それに『古代の南露西亜』の原書と関係参考書を長きに渡って借りていた京城帝国大学図書館への謝辞があることから、二人は同大学の教授だったと思われる。またそこに小林行雄への刊行援助と桑名文星堂への深謝も添えられている。当時小林は京大考古学卯研究室助手だったが、それは京大に初めて設けられた講座の教授となり、学長も務めた浜田耕作に認められたからで、在野の研究者を経て、すでにいくつもの考古学書を出していた。その関係から桑名文星堂ともつながりがあり、この翻訳出版の橋渡しをしたのではないだろうか。

 その出版ということで見逃せないのは、訳者によって「追加」された「参考書目」で、それは本連載でたどってきた蒙古やロシアの翻訳書類、及び多くの専門、学会誌掲載の日本人の論稿も挙げられている。これらの大半が京城帝国大学図書館に架蔵されていたと考えられるし、その蔵書に関して大いなる興味をそそられる。それはともかく、「参考書目」の中から、これまで言及してこなかった翻訳単行本をリストアップしてみる。例によって、ナンバーは便宜的に振ったものである。

1 ウエ・バルトリド、外務省調査部訳『欧洲殊に露西亜に於ける東洋研究史』(生活社、昭和十六年)
2 イノストランツェフ、蒙古研究所訳『匈奴研究史』(生活社、昭和十七年)
3 マイエル、村田数之亮、二宮善夫訳『希臘主義の東漸』(創元社、昭和十七年)
4 テツガアト、山崎昇訳『ローマと支那』(山一書房、昭和十九年)
5 ルネ・グルセ、後藤十三雄訳『アジア遊牧民族史』(山一書房、昭和十九年)
6 パーカー、閔丙台訳『韃靼一千年史』(大和書店、昭和十九年)
7 ハーゼブレック、原随園、市川文蔵訳『都市国家経済(古代希臘に於ける国家と貿易)』(創元社、昭和十八年)
8 チャイルド、禰津正志訳『アジアの古代文明』(伊藤書店、昭和十九年)
9 アンデルソン、三森定男訳『支那の原始文化』(四海書房、昭和十六年)
10 ポロンスカヤ女史原著、平竹伝三編『露西亜古代文化史図説』(刀江書院、昭和七年)
11 アンデルソン、松崎壽和訳『黄土地帯』(座右宝刊行会、昭和十七年)
12 モンテリウス、浜田耕作訳『考古学研究』(岡書院、昭和七年、萩原星文館、昭和十七年)
ローマと支那

 これらは『古代の南露西亜』だけの「参考書目」であり、ほとんどが大東亜戦争下に出されている。おそらくこれらの大半が何らかのかたちでの出版助成金を得て刊行されたものであろうし、そうした出版において、この時代にしか翻訳されなかった貴重な研究書も多く含まれていたにちがいない。だがその全貌はつかめていない。

 なお脱稿後に、前回の『シベリヤ年代史』と今回の『古代の南ロシア』、さらに5の『アジア遊牧民族史』も原書房の「ユーラシア叢書」で復刻されていることを知った。

アジア遊牧民族史(『アジア遊牧民族史』、ユーラシア叢書)


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