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古本夜話620 上田広『緑の城』

本連載618の日比野志朗のところで、日比野や火野葦平と並んで上田広も「帰還作家」として文名をあげたと書いておいた。上田も陣中小説『黄塵』(改造社、昭和十三年)や『建設戦記』(同、同十四年)が評判作となったとされる。それもあって、これまでずっと参照してきた『昭和戦争文学全集』第二巻に、前回の林芙美子『北岸部隊』、火野の『麦と兵隊』、日比野志朗の『呉淞クリーク』とともに、上田の『建設戦記』も収録されているのだろう。
『昭和戦争文学全集』第二巻(『昭和戦争文学全集』第二巻) 北岸部隊麦と兵隊 呉淞クリーク

上田のこの二冊は所持していないが、昭和十九年に新興亜社から刊行された『緑の城』は入手している。これは前述の二作の北支戦線を背景とするものではなく、サブタイトルに「バタアン・コレヒドール戦話集」とあるように、南方を舞台としている。奥付の著者紹介には「鉄道省教習所機械科卒業後鉄道省勤務。支那事変勃発と同時に出征。帰還後大東亜戦争下陸軍報道班員として南方にて活躍す」と記されているので、「南方」での体験を小説・記録化したものと見なせよう。

その表紙はマニラ湾より見られたバタアン半島を描いた絵で装幀され、その装幀者の永井保も「陸軍報道班員としてバタアン半島総攻撃に参加、陸軍美術協会、新制作派協会展に出品、現在、文化奉公会々員」とある。ちょうど『北岸部隊』の林芙美子に藤田嗣治が同行していたことを想起させる。またそのことを喚起するように、バタアンへの進軍、コレヒドールの風景、ボートに乗る著者などが口絵写真として掲載され、冒頭の三編からなる中編『緑の城』は「西岸部隊」、それに「敵前上陸」「要塞」が続いている。

『緑の城』において、年代は明記されていないけれど、この中編は昭和十七年の日本軍によるフィリピンのバタアン半島攻略とコレヒドール島占領の従軍記録であり、まずバタアン半島はまさにタイトルのように出現している。

 オロンガポ、マヤガホ、モロン、バガツクと、曲折に富んだ海岸の美しさは、いったいに多い椰子の林や、檳榔樹や、マンゴ樹や、バナナ畑に光る陽光によけいだ。したたらんばかりに緑葉が、陸地を覆うて風に見舞はれるとごに一枚一枚ひるがへりかがやくさまのあかるさ、あかるさにうづもれた静けさ。そのあかるさこそ、そのしずけさこそ……南方的で、そこがわれわれの戦場であるのを思ふと、皇軍出師の意義を考へるまでもなく、自らなる大らかさが得られるのである。サマツト、マリベレスに遁入した敵は、米比あはせて数万と云はれてゐるが、その数万の敵をも、われわれの兵力をも、いだき持つた自然を、ときにわれわれは客観視してよいであらう。

こうした「緑の城」のような「われわれの戦場」は携行した寒暖計の目盛を超えてしまう「暑熱」の中にあり、飲料水も不足し、密林が待ち受け、デング熱とマラリアが蔓延するところだった。「弾丸に死すとも病に死すな」という戦場の言葉がこれほどリアルな場所もなかった。そのような中を西岸部隊は給水、衛生、兵站、鉄道、輓馬に携わる班や部隊とともに闘い、バタアン半島総指揮官キング少将率いるアメリカ、フィリピン軍は白旗を掲げるに至る。

その後に残されているのは難攻不落を誇るコレヒドール島要塞であり、「敵前上陸」を敢行し、地下道へと突入し、「要塞」を占拠することになる。コレヒドール島は「きわめて怪奇に映じ」、兵隊たちから「沈まざる軍艦」「鉄の鯨」などと呼ばれてきた。その実態が初めてここで描かれることになる。いってみれば、日本軍によるアメリカの軍要塞の占拠の光景が出現するのである。破壊された岸壁のトーチが、銃身の折れた機関銃と米兵の死体、無数の弾痕をとどめて横たわる軍用道路、これも完璧に破壊された島最大の要塞砲と弾薬庫、地下道で捕虜となった一万二、三千人の米兵たち。その地下道の奥には炊事場、食堂、洗面所、便所まであり、さらに数ヵ月分に当たる食糧が積み上げられた糧秣倉庫、負傷兵、若いアメリカ人やフィリピン人看護婦のいる病院、放送室、冷房装置を備えた司令室まであった。

そしてコレヒドール島のアメリカ軍本部にも向かう。

 南に面した島の最高地をトップ・ヒルと呼んでゐる。そこには大きな兵舎があり、附近にも附属建物が多い。何れも鉄筋コンクリートでかためられた堅固なものだがわが爆撃、砲撃のため原形を失つてゐる。その兵舎の中央には、前日まで、星条旗がかかげられてあつたのだが、いまは輝かしき日章旗が、東海を照らす日輪となつて、ヘンぽんとひるがへつてゐる。人気のない兵舎内へはいつてみると、(中略)椅子もテーブルもひつくりかへり、トランクの中から、軍人が持つてゐたと思へない服が、半ばひきだされたままになつてゐるのも、何かあはれを感じさせる。婦人の衣服らしいものも相当に見えて、彼らの変つた陣中生活がうかがへる。兵舎の各部屋は、大半破壊されてゐるのだが、玉台、ピンポン台等をもつ娯楽室なども見られた。

このような兵舎の光景は上田からすれば、「日章旗」から「星条旗」を表象し、そのことで「何かのあはれを感じさせ」、「彼らの変つた陣中生活」が浮かんでくることになるのだが、これこそは日支事変の従軍小説や記録に見られなかったもののように思われる。

私は繰り返し、太平洋戦争とは当時の産業構造から見て、日本=農耕社会とアメリカ=消費社会の闘いだったと述べてきたが、このシーンこそ、それを象徴的に浮かび上がらせているように見える。この兵舎に見られる軍人らしくない服、女性兵士も含められていることを示す婦人衣服、娯楽室の存在こそは「あはれ」でも「変つた陣中生活」などではなく、前述した食糧の詰まった糧秣倉庫と同様に、消費社会の軍隊にとっては必然的な生活と装備だったのである。

それらばかりか、密林の島はトップ・ヒルから中央部の低地まで電車の軌道が走り、電車が往復し、水道設備も完備され、コンクリートで固められたテニスコートの下が貯水池になっていたのである。これが日本の兵隊たちから見て、「コレヒドール島そのものの実体が、きわめて怪奇に映じた」理由となろう。ここでは言及しなかったが、あの「バターン死の行進」もまた、このような「日章旗」と「星条旗」の「陣中生活」ギャップが生じさせたとも考えられるのである。

またこれに書いてから、ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の『コレヒドール戦記』という映画があったことを思い出した。どこかにあったはずなので、あらためて見ることにしよう。
コレヒドール戦記

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