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古本夜話621 棟田博『台児荘』

火野葦平『麦と兵隊』と並ぶベストセラーとして、 棟田博『分隊長の手記』があり、その続々編というべき『台児荘』まで三作が刊行されている。

麦と兵隊分隊長の手記 (『棟田博兵隊小説文庫』版)

上田広や日比野志朗と異なり、棟田は戦後に『拝啓天皇陛下様』講談社)を出し、渥美清主演で映画化されているし、また光人社から『棟田博兵隊小説文庫』全九巻などもの刊行もあるので、彼らよりは知名度が高いと思われる。それでもまずは『日本近代文学大事典』における立項を引いておく。
拝啓天皇陛下様(光人社NF文庫)  拝啓天皇陛下様

 棟田博 むねだひろし 明治四一・一一・五〜昭和六三・四・三〇(1908〜1988)小説家。岡山県の生れ。早大国文科中退。昭和一二年、支那事変勃発とともに八月応召。赤柴部隊の歩兵上等兵として、同年一二月済南入城。翌一三年五月徐州作戦に従って南下中、台児荘の戦闘で負傷し、九月帰還した。一四年、長谷川伸を中心とする雑誌「大衆文芸」に、『分隊長の手記』を連載(昭一四・三〜一七・五。のち新小説社刊)、好評を博した。済南作戦の出発から入城まで、一分隊長としての戦場体験を叙したもので、発刊後二ヵ月余に三〇版を記録し、前年発刊された火野葦平の『麦と兵隊』につぐベストセラーとなった。一七年同じく戦場での体験を素材とした『台児荘』で、第二回野間文芸奨励賞を受けた。(後略)

これを補足訂正しておくと、『分隊長の手記』は『昭和戦争文学全集』第二巻所収の一部しか読んでいないのだが、『続分隊長の手記』も含め、昭和十二年の支那事変における済南戦の始まり、その占領と入城までを描いているはずだ。そして『台児荘』において、そこでの同十三年四、五月の敗北を記録することになる。それを受けて徐州作戦が発せられ、この作戦に従軍し、火野は『麦と兵隊』を書いたのであり、刊行は逆だが、『分隊長の手記』三部作のほうが戦争の時間軸としては先で、棟田博は「徐州作戦に従って」いない。
続分隊長の手記

『分隊長の手記』は未見だけれど、『台児荘』は手元にある。版元は本連載428でふれた新小説社で、昭和十七年十一月初版八千部、同十二月改訂八千部と奥付に示されている。この「改訂」とは伏字処理を意味しているであろう。ただこの部数から考えると、『分隊長の手記』ほどではないにしても、それなりの売れ行きだとわかる。その奥付裏には「棟田博著作集」として、記述の二冊の他に、『続分隊長の手記』、小説集『中華理髪店』、小品と随筆集『背嚢』の五冊が並び、棟田博が当時の新小説社を担うベストセラー作家だったことをうかがわせている。

それもあってか、棟田は『台児荘』の「序章」において、『分隊長の手記』が中絶してしまったのは「否が応でも、台児荘戦線(筆を進めてゆかねばならないところへまえ来てしまつ」たからだと述べている。日本軍が敗れ、支那軍が勝ったとされる台児荘戦とは何であったのか。それが「激烈な戦闘」だったことは確かだが、何が起きていたのか。棟田はその山東省の最南端にある台児荘のプロフィルを次のように提出している。

 台児荘―といふ、何の変哲もない、支那の田舎の街の名を、かくまでに、忘れ得ず胸に肝にきざみこまれ彫りつけられようとは、いったい何処の誰が思つてゐたであらう。
 如何にも台児荘は、なんの変哲もない小さな街である。人口はやつと一万といふところであつた。
 たゞ、こゝが、往昔からの古い城市であつたことは、その城壁が話して聞かせて呉れる。この街には惜しいほどのまさに端厳たる城壁である。

またこの街は果てしなき大耕地に囲まれ、落花生、葉煙草、棉花、山繭などの膨大な農産物の集散地であり、そこが支那軍の大集団で埋まり、もはや「街」ではなく、「要塞」と化してしまった。そこに日本軍も押し寄せ、すさまじい攻防戦が展開されていくことになる。これが「台児荘戦」に他ならない。

棟田は『台児荘』において、『分隊長の手記』のような一人称の語りを採用せず、「台児荘戦」を取り巻く国際状況、支那や日本の動向を描くために、ポリフォニックな手法を導入することによって「激烈な戦闘」の背景を探索しているかのようだ。「序章」でも様々な人物たちが語られている。南京政府の軍事顧問として渡支していきたドイツの軍事的思想の唯一の正統的後継者ハンス・フォン・ゼークト、彼が蒋介石に与えた軍事的影響、国民党と共産党の抗日合作計画、スメドレーが伝える共産軍=第八路軍の実態、日本からの蒋政権大使館の消滅、支那軍の徐州への終結、ソ連からのオレルスキー新駐支大使の着任、満洲国承認と日支問題に関するヒトラーの演説、これらのすべてが複雑に絡み合い、乱反射するかたちで、「台児荘戦」へと投影され、「激烈な戦闘」をもたらしたのだといっているかのようだ。

そのようなポリフォニックな語りは続いていき、これまでの「棟さん分隊長」の視点からの手記ばかりでなく、伊賀上等兵の覚え書、秋山一等兵の日記、片山上等兵の手記なども重層的に挿入される。彼らは『分隊長の手記』でお馴染みの兵隊たちである。そして森本一等兵の戦死も伴う中で漢口に終結する英米独仏などの駐支大使たちの各国外交戦、国民党臨時全国大会=六全大会がほとんど伏字だらけで報告される。それに棟田の日本の兄への長い手紙もはさみこまれる。しかしそれでも終わりは近づいてくる。それは棟田の分隊を始めとする決死隊の選抜であった。中隊長はいう。「吾が中隊は光栄ある決死隊である。(中略)今更、われらは何も云う事はない。一死君国に殉ずるのみである。中隊長も死ぬる。みんなも死んで貰ひたい」と。そこから棟田分隊が中央小隊として夜の麦畑の中を前進していくと、支那軍の銃撃が始まり、突っ込んでいく中で、棟田は負傷し、部下たちに助け出される。ここで棟田は「こゝから先きを書きかけてみましたが、どうにも駄目なのです」と記し、「こゝで、この章のペンを擱きたいと思ふ」と書き、唐突に『台児荘』を閉じている。「激烈な戦闘」とは自らも負傷し、多くの戦死者を出したこの決死隊の闘いを主としてさしているのだろう。このクロージングはよく闘った者ほどそれを語らないということを告げているようにも思える。

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