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古本夜話631 勝野金政『赤露脱出記』

勝野金政の『赤露脱出記』は日本評論社から昭和九年に刊行されているが、美作太郎は治安維持法違反で捕われ、獄中にあったので、『戦前戦中を歩む』の中ではまったくふれられていない。

勝野は「ソヴエト露国を去るまで」という言葉を添えた「序にかへて」で、「この一篇はソヴエト露国に対する私の訣別であり、又故国日本に於て回生の道を開かうとする私の信条の告白である」と記している。彼は「プロレタリアとしてまた共産主義者として」ソビエトで七年近く生活したけれど、「転向せざるを得なかった」し、「万死を賭して」日本へと帰るしかなかった。そしてここに「ソヴエトの内に於ける一市民の運命」と同様の彼の生活が「写真に取る」ように描かれていく。それもあって、「単なる手記」よりも広範な視点を導入するためか、畑という中央病院の内科部長を主人公とする小説のようなかたちで展開されていくことになる。時代は一九三三年、舞台はフィンランド国境に近いソーロク港である。

この港の大工事のために、ロシア人の他に畑のような日本人、朝鮮人、無数の支那人の学生、商人、労働者たちが動員されていた。その数は一万人に及び、司令部直属の医師の畑も含め、「囚人労働者」であった。第一章の「白海の岸」において、畑が診察したり、接触した多くの人々の「強制労働所」=「ラーゲルの社会組織」での悲惨で飢えに満ちた生活が描かれていく。

それは民族を問わないもので、どのような経緯と事情によりここに追いやられたかも語られている。犯罪やスパイ容疑、理不尽な裁判、暴力と病気と怪我の蔓延、「神もないがパンもない」ソヴエト政権の実態、ありとあらゆる罪悪、「何と云ふ恐ろしい国だ!」との叫びも見られる。それだけでなく、「強制労働囚人」という言葉は「植民」に変えられた。その背景には次のようなソヴエトの状況がある。これは勝野が『赤露脱出記』の中でも、最も訴えたかったことだと思われるので、ここで引いてみる。

 ―革命は犠牲を要する。これは真当である。土地を離れ、家畜を取られ、家を奪はれた中央ロシヤの人民達は零下四十度の北極に於てプロレタリアートとしての生活を修得しなくてはならぬ。十月革命後急角度を取つてプロレタリア独裁のコースへ向つたボリシエビキーは其の政権維持の為に暴力から暴力を押し続けた。そして人民の生活を根柢から転覆して仕舞ふ、これが革命であり、プロレタリア独裁の過程である。革命の犠牲になる国民の生活程哀れなものはない。ソヴエト政経の植民! 彼等は明日から斧と鋸をもつて雪の上に立つ森林労働者となるのである。更生、進化、ソヴエト、ロシヤの標語たる「農業国から工業国へ」と変化する過程はかういふ国民の哀れなる而もいたましい犠牲を要求する。

革命が革命を裏切り、独裁と暴力を生み、強制収容所を出現させてしまうという背理がここに示されていることになる。このようなソ連の状況は一九七〇年代になってソルジェニーツィンの『収容所群島』(木村浩訳、新潮文庫)によって広く明らかにされたが、勝野の同書の刊行は一九三四年の昭和九年だったわけだから、この出版は勝野にしても日本評論社にしても、決断を要するものだったと推測される。ただ私は『エマ・ゴールドマン自伝』(ぱる出版)の訳者であるので、三一年刊行の同書、及び二三年の『ロシアでの私の幻滅』(未訳)において、世界に先駆け、エマたちがロシア革命の実情を批判していたことを付記しておく。
エマ・ゴールドマン 上 エマ・ゴールドマン 下

それでも畑は「白海の岸」の最期のところで、ラーゲルでの二年を含み、五年の刑期が満了となり、放免されることになる。そして第二章の「放免の旅」はレニングラードからモスクワへの移動、かつてのモスクワの思い出と畑野政治的亡命者としての処遇、第三章の「新しい地帯」では新たな地であるツーラ行と職探し、ラーゲルより悲惨な地方の農民の生活などが描かれ、結局のところ、畑はモスクワに戻り、「日本大使に自首」した。そこで実質的に『赤露脱出記』は終わっている。

この後には付記のようなかたちで、十五ページほどの「モスクワの片山潜」が添えられている。片山に関しては本文でも畑との関係についての言及があったが、これはソヴエトにおけるコミンテルン常任委員としての十一年間の簡略な片山のポートレートとその軌跡、モスクワでの人間関係、彼を訪ねてきた日本人たち、山本懸蔵が語る片山の質朴簡素な日常生活などが述べられている。この「モスクワの片山潜」は勝野による片山のレクイエムといっていいだろう。ただ片山、勝野、山本の関係はそれ以上追及されることなく、閉じられている。

ところが『赤露脱出記』で描かれた畑=勝野の強制労働所送り、その後の山本の粛清は一九九〇年代のソ連崩壊後に公開された秘密文書によって明らかになるのである。それにふれる前に、主として『日本近代文学大事典』などにより、三人のソ連との関係を述べておこう。

近代日本社会運動史人物大事典

片山は国際的な社会主義者として、アメリカにいたが、第三インターナショナル書記局の要請に応じ、一九二一年にモスクワ入りしてコミンテルンの常任委員に選任された。勝野は二四年にパリ大学に入学し、フランス共産党に入党したが、国外追放を受け、二八年にソ連に亡命し、モスクワで片山の私設秘書を務めることになる。山本は労働組合運動指導者として、二二年に日本共産党に入り、二八年には共産党弾圧の検挙を逃れ、ソ連に入国し、そのままプロフインテルン(赤色労働組合インターナショナル)日本代表として、ソ連に在留となった。すなわち二八年には三人がソ連で活動を始めていたのである。

ところが三〇年になって、次のような事態が生じた。これは先の『同事典』の勝野の立項からの抽出による。

 30年10月、ベルリンの国崎定洞の紹介でクートベ(極東勤労者共産主義大学―引用者注)入学を志願してきた根本辰の処遇をめぐって、片山、勝野と山本懸蔵が対立、根本を「日本特高のスパイ」と疑う山本懸蔵は、片山の留守中に根本をソ連秘密警察に密告、根本は国外追放、根本を推薦した勝野も同時に突然逮捕され、「スパイ」として強制収容所に送られた。34年6月に減刑釈放されソ連共産党に再審を求めたが認められず、日本大使館に保護を求め、34年8月に帰国、共産主義運動を離れた。

つまり勝野は山本の密告という真相を知らずして、『赤露脱出記』を書いたことになる。しかしその山本も三七年に、「日本陸軍のスパイ」として逮捕され、三九年に銃殺されていたのである。その真相が明らかにされたのは、それから半世紀以上を経た九三年の小林俊一・加藤昭の『闇の男 野坂参三の百年』(文藝春秋、平成五年)の刊行であった。三〇年代のモスクワには彼らの同志として。野坂がいたのである。他ならぬその野坂が勝野を密告した山本、それに先の国崎をも密告し、死に至らしめていた。それはソ連崩壊後に公開された秘密文書によって明らかにされてしまった。ここでもまた、革命家が同じ革命家を裏切るという背理が起きていたことになる。
闇の男 野坂参三の百年

なお国崎のケースに関しては、加藤哲郎『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、平成六年)で詳しくレポートされている。また勝野については本連載で再びふれることになろう。

モスクワで粛清された日本人


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