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古本夜話660 田中達と『死者之書』

大正九年から十年にかけての『世界聖典全集』前輯の刊行は、前回の鈴木重信の一人にとどまらず、もう一人の死者を伴わなければならなかった。しかもそれは第十巻十一巻『死者之書』上下の翻訳者の田中達であった。
耆那教聖典(『耆那教聖典』)

『耆那教聖典』に寄せた「故鈴木重信を憶ふ」という長いものではないけれど、やはり松宮春一郎が大正九年六月付で、その追悼の辞をしたためているので、それを示す。少しばかり長くなってしまうが、おそらく鈴木重信と同様に、ここにしか田中の人となり、また葬儀の件は語られていないと思われるからだ。

 (前略)本書の訳者田中達氏は、去る三日、肉体を地に遺して、霊魂を天に遷せり。氏は慶應元年四月、和歌山日高郡南部村に生る。初め仏教に志せるも、伯父植村牧師の勧説に動き、基督教に転じ、明治学院、青山学院に学ぶ。明治卅十五年米国ハートフォルド神学校に遊学、同卅十八年帰朝。爾来主教の比較研究に心を潜め、傍ら神学舎、青山学院、早稲田中学等に教鞭を執る。就中埃及学の討究は氏の最も興趣とする所。桜花方に散ずるの時、訳稿漸く成るや、宿痾腎臓炎再発し、臥床月余にして病革まる。翌四日聞知せる余は、西大久保なる同氏邸に馳せ参じたるに、門前何の異常もなし、若しや誤聞にてありけるかと、愁の中に喜の思も浮べ、家人の請ぜらるゝ儘、客室に入れば白布を掩へる霊柩は眼前たり。嗚呼。未亡人の「意を安ぜよ、亡父は天国行を確信せるを。去れど会葬のため大切なる務を欠かせ給ふは本意なし、葬儀は濃厚なる親戚のみにて執行ひ追て後洩なく朋友知己に我が逝ける由を告げよ、さらば辱知の方々も御差支なき時に来弔せらるべく、遺族も亦心せきなく御芳情を受納し得んと、切に戒めける忘夫の遺志を重んじ、未だいづ方へも、通知申さゞるなり」との物語は、いとゆかしく万事を肯かせぬ。五十年の生涯には、激潭もありしなるべく、奔流もありしなるべきも、而も極めて潔き行と極めて麗しき心とは、永く洋々たる大海の楽を楽まむ。本書死者之書は同氏が最大の遺愛たり、亦不朽なる墓石の一片たるべし。

『死者之書』の奥付刊行は大正九年七月なので、これも『耆那教聖典』の鈴木重信と同様に、『死者之書』の田中達も訳書の上梓を見ずして逝ったことになる。

「凡例」によれば、この『死者之書』はウォーリス・バッジの英訳The Book of the Dead,1901 からの翻訳である。バッジはケンブリッジ大学でアッシリアとヘブライ学を専攻し、一八九四年から一九二四年まで大英博物館のエジプト・アッシリア室長を務め、またメソポタミアのニネベなどの発掘にも携わっていたとされる。バッジに先行する『死者の書』のいくつかの翻訳書や彼の原書を見ていないけれど、パピルス文書より採集複写した挿絵の配置は、バッジの『死者之書』のオリジナルだと判断できる。邦訳もそれを踏襲し、原書と同じ四百有余の挿絵を施したこと、また『世界聖典全集』に収録されたことで、固有のアウラを施されたように思える。

『死者の書』は古代エジプトの呪文、讃美歌、経文のようなものとされるが、それより先にパピルスではなく、ピラミッドに書かれていた「ピラミッド・テキスト」、棺にしるされていた「コフィン・テキスト」を起源としている。これらの二つのテキストは『古代オリエント集』(『筑摩世界文学大系』1、昭和五十三年)で読むことができるが、内容は共通していても、挿絵がまったくないために、『死者の書』とは別のテキストのように映ってしまう。

やはりバッジ版『死者之書』の真骨頂は邦訳も含めて、多くの挿絵を配し、その上でオシリスの物語として提出したことに求められる。バッジはその解題で、次のように述べている。

 『死者之書』のヘリオポリス原本(ピラミッド・テキストのひとつ―引用者注)は、其始終を通じて、オシリスは死者の神々の一団中にありて主位を占むるものなることを臆定せり。下りて基督紀元の最初数百年間にありては、死者の冥福の為めに造られし各経文の根本思想は、一として臆定に基かざるものはあらず。オシリスは神より生れ出でたる事、オシリスは其肉体に於て此世界に生息せし事、オシリスは陰謀によりて虐殺せされ、且つ細かに裁断せられし事、其妹イシスは其肢体を集めたる事、又イシスは特にトト神の作れる魔言を唱へて各肢体を組み合せたる事、オシリスは此れの方法によりて復活したる事、オシリスは不死となりて下界に入りし事、又其処にてオシリスは死者の審判者となり、王となりしことは一般は信仰せられたり。

この物語に基づき、プルタルコスは『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』(柳沼重剛訳、岩波文庫)を著すことになる。
エジプト神イシスとオシリスの伝説について

それは折口信夫も同じで、イシスとオシリスの神話を物語祖型として、やはり『死者の書』を書くに至るのである。そして他ならぬ釈迢空として、本連載654でふれた藤無染という死者を召喚するために。昭和十八年に刊行された『死者の書』(青磁社)の実物は未見だが、『折口信夫』(『新潮日本アルバム』26)所収のその表紙を見ると、そこに「頭画」がそのまま転載されている。それは棺台に横たわるミイラの上を飛ぶ人頭鳥身のかたちをした死者の魂「バ」がかぎ爪を永遠の象徴とするシエンを持っている図で、その霊魂はオシリスの胸の上に置かれ、神々の間で生存することを告げているようだ。折口の『死者の書』も、本連載392393の鎌田敬止の手になるものなのであろうか。
死者の書 折口信夫

この『死者之書』と折口=釈迢空『死者の書』の関係は、安藤礼二の『光の曼陀羅』で詳細に論じられているので、ここではこれ以上言及しない。ぜひ『初稿死者の書』(国書刊行会)から始まり、『光の曼陀羅』を経て、『折口信夫』(講談社)に至る安藤の営為を参照してほしいと思う。
初稿死者の書 光の曼陀羅 折口信夫

なお石上玄一郎の、やはりバッジをベースとする『エジプト死者の書』(人文書院、昭和五十五年)に教示を得たことを付記しておく。
エジプト死者の書


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