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古本夜話662 博文館「興亜全書」、井筒俊彦『アラビア思想史』、前嶋信次『アラビア学への途』

前回、岩波文庫版の『コーラン』の訳者として、井筒俊彦の名前を挙げておいたが、本連載564などでふれてきたように、井筒もまた大東亜戦争下のイスラム研究者の一人であり、昭和十六年には『アラビア思想史』を刊行している。これは博文館の「興亜全書」の一冊である。
コーラン

だが本連載でしばしば参照している『博文館五十年史』は昭和十二年の刊行なので、「興亜全書」についての言及にしても、そのラインナップの明細にしても、掲載されていない。それに全巻は刊行されなかったけれど、次の五冊は出版されたようだ。その巻数とタイトルを示す。

1 旗田巍 『支那民族発展史』
2 青木富太郎 『蒙古の民族と歴史』
9 前嶋信次、寺田穎男 『中央アジアの過去と現在』
10 井筒俊彦 『アラビア思想史』
11 蒲生礼一 『イランの歴史と文化』

中央アジアの過去と現在(『中央アジアの過去と現在』)

9 の前嶋には『アラビア学への途』(NHKブックス)という回想録があり、「興亜全書」はやはり本連載577の回教圏研究所々長の大久保幸次監修によるもので、各巻が四百ページから六百ページの全十三巻とされ、前記の他に野村一雄『近代満州の発達』、鏡島寛之『南方仏教圏』、鳥養太一郎『南洋諸民族史』、岩永博『近世インド』、大久保幸次『トルコ共和国史』を挙げている。だが前嶋の「その後、戦局は日を逐って苛烈となったので、おそらく大部分が日の目を見なかったであろう」との述懐と照らし合わせれば、先の五冊しか刊行されなかったことも了承される。
アラビア学への途

これだけでなく、前嶋の『アラビア学への途』は戦前のアラビア学事情に加えて、本連載567の田中逸平や同573の鈴木剛の写真も掲載され、同566のイブラヒムと同567でふれた山岡光太郎との関係も言及されている。さらにこれも同577の回教圏研究所や同564の満鉄東亜経済調査局とそれらのメンバーや人脈も描かれ、そうした事柄も取り上げておかないと惜しい気もするので、もう少し続けてみる。

前嶋と寺田穎男の共著『中央アジアの過去と現在』は初版三千部で昭和十七年に刊行された。前嶋はその二年前に回教圏研究所と東亜経済調査局からの入所勧誘をうけていたが、前者がフランスやドイツの東洋学者フェランやモリッツの蔵書を一括購入したことから、その西アジア班に入り、そこで寺田と同僚になった。『中央アジアの過去と現在』も最初は寺田が引き受けたのである。ところが彼は近現代が専門で、近世や中世は得意でなかったために、前嶋が担当することになった。

監修者の大久保幸次は旧幕臣の家柄で、東大史学科を経て、独学でトルコ語を修め、日本のトルコ学の先駆者だった。長く駒沢大学教授を務めていたが、昭和十三年に回教圏巧究所(後の回教圏研究所)を設立し、所長として月刊誌『回教圏』も創刊した。やはりアラビア学の小林元が研究部長、東洋史学の松田寿男が資料部長だった。だが大久保は終生独身で過ごし、戦後三年ほどで他界してしまったという。また先の寺田にしても、マニラ沖で戦死し、アラビア学の先達たちも大東亜戦争の渦中にあって、死と向かい合わせの研究に打ちこんでいたことになろう。

またここで補足しておけば、前嶋の東大時代は高楠順次郎退職後で、辻直四郎がサンクリット講義を担当し、東亜経済調査局時代にあっては大川周明が局長を辞め、顧問に退いていて、アラビア学にしても東亜経済調査局にしても、新たな時期を迎えていたといってもいいかもしれない。そのようなプロセスを経て、戦後のアラビア学の発展もあるのだろうし、前嶋は平凡社の東洋文庫の『アラビアン・ナイト』の原典訳に向かったことを記しておこう。
アラビアン・ナイト

さてここで「興亜全書」に戻ると、9などと異なり、10の井筒の『アラビア思想史』は三十年を経て、『イスラーム思想史』(岩波書店、昭和五十年、のち中公文庫)として改訂版が刊行に至っている。この原本である博文館版は未見だが、井筒の「後記」によれば、原本の場合、第一部は神学、第二部は哲学に当てられ、イスラーム思想史研究に不可欠な神秘主義(スーフィズム)は独立した項目として扱われていなかった。それが改訂版において、第二部「イスラーム神秘主義(スーフィズム)−Tasawwuf 」、及びイスラーム思想の史的展開に重大な影響を及ぼしたイスマートール派の秘密結社「純正同胞会」の「教書」の思想が加えられたという。
イスラーム思想史(中公文庫版)

「スーフィズム」とは本連載657の荒木茂が『世界聖典外纂』で担当してものであったが、ここに井筒を通じての「スーフィズム」の提出を見ることができる。井筒は「スーフィズム」がイスラーム内部に起きた神秘主義を指す西欧の用語であり、それは原語で神秘家自身のことを「スーフィー」と呼称することから、「スーフィズム」という言葉が造られたと始めている。神秘家が「スーフィー」の呼称となったという諸説の中で、最もポピュラーなのは次のようなものだ。

「スーフ」とは羊毛を意味し、「スーフィー」とは羊毛の衣を着た人である。昔のアラビアにあって、羊毛の粗衣は下層社会の人間、極貧者、奴隷、囚人などが着るものであり、それは同時にイスラーム発生以前にアラビア半島の砂漠の奥地にひそやかな庵をむすんでいた多くのキリスト教の隠者、修道士の常衣でもあった。しかしイスラーム勃興以来、現世をはかなんで世を捨て、羊毛の粗衣をまとい、隠遁生活に入る人が続出するに至って、「羊毛を着ること」が現世的生活から苦行の道に入ることの象徴的な表現となった。それを始まりとして、行者たちは初期の修道苦行から「知」の段階を経て、神秘主義(スーフィズム)へと至るのだが、その原動力となったのは、すでにイスラーム思想界に流入していた新プラトン思潮、様々な次元で中近東全体に拡がっていたグノーシス的秘儀宗教、インド宗教哲学、仏教学などの影響であった。

そうしてさらに井筒はイスラーム神秘主義をトレースしていく。それについてはここでは言及しない。だがこのイスラームへの新プラトン主義やグノーシス的秘儀宗教やインド宗教哲学の影響を教えられると、国と時代は異なっていても、思わず本連載651のなどでもたどってきた新仏教徒運動のことを連想してしまう。これもまた同様の影響を受けて、さらなる近代的変容も伴って展開されていったようにも考えられるからだ。


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