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古本夜話671 高嶋米峰と丙午出版社

新仏教運動と出版に言及するのであれば、境野哲や杉村縦横(楚人冠)と同様に、『新仏教』編輯員だった高嶋玉虬=高島米峰にもふれなければならない。それに新仏教運動に寄り添う出版の第一人者として高嶋を挙げることに誰も異存はないと思われるからだ。その意味においても、まずは『出版人物事典』の立項を引くべきであろう。しかもここでは高楠順次郎の次に並んでいて、新仏教運動の出版における二人の重要な人物が揃って顔を見せていることになる。また本連載653のゴルドン夫人『弘法大師と景教』も既述しておいたように、高楠訳により、丙午出版社から刊行されたのである。

出版人物事典
  [高嶋米峰 たかしま・べいほう、号・大円]
一八七五−一九四九(明治八〜昭和二四)丙午出版社創業者。新潟県生れ、哲学館(現・東洋大)卒。新仏教同志会を組織、『新仏教』を出すとともに廃娼運動、禁煙運動に関係、社会主義者にも同情を示した。一九〇一年(明治三四)鶏聲堂を創業、書籍・雑誌を販売、さらに〇六年(明治三九)共同出資で丙午出版社を創業、出版を始める。一一年(明治四四)、友人、堺利彦のすすめで、当時、大逆事件で獄中にあり、死刑執行寸前に脱稿した幸徳秋水の『基督抹殺論』を出版、注目された。晩年には、東洋大学学長、日本文学報国会理事長などを務めた。
基督抹殺論

幸いなことに米峰には戦後になってからだが、『高嶋米峰自叙伝』(学風書院、昭和二十五年)が出されているので、それをたどって補足してみる。その前にふれておけば、この学風書院は米峰の息子の高嶋雄三郎が設立し、米峰の死の翌年に残された自伝の刊行を見たことになろう。

米峰は大学卒業後、明治三十年に金沢の北国新聞記者を務めていたが、翌年帰京し、前々回ふれた大内青巒の『浄土三部経』の和訳の仕事に携わる。それはやはり弟子の安藤正純が継承し、森江書店から出版に至ったという。これも前々回の境野哲『印度仏教史綱』の巻末広告を確認してみると、それが大内青巒先生演訳、安藤正純和訳『浄土三部作妙典訳解』だとわかる。


それをきっかけにして、米峰は帝国東洋学会の復刻版の梵漢字書編集の仕事に就くことになった。しかもそこは本連載558の文明堂ともつながっていた。

 当時、帝国東洋学会の事務所が文明堂の二階に在つて、僕が毎日通勤して居るという関係と、及び文明堂が開店する当時、桜井義肇君から、二三相談せられた事があつた因縁で今度僕が本屋を開業するといふについては、大に助力をして呉れ、定期刊行物は勿論、その他の書籍も、極めて便利に分けて貰つたし、又当時は、小僧を貸して、用をたさせて呉れたこともあつた(後略)。

これは小石川原町の東洋大学前に鶏聲堂を開業した明治三十四年当時の事情を語っていることになる。『新仏教』創刊は同三十三年であるから、鶏聲堂の開業も新仏教運動と密接につながっていた。それはここに登場する桜井義肇も同様で、彼はこの時期に『中央公論』編集主幹の地位にあったので、鶏聲堂に対しても「大に助力」を与えることができたのであろう。それは定かではないけれど、米峰の記述からすると、これも書店を兼ねていた文明堂の開店も支援していたと推測できる。

そのような経緯と事情もあって、桜井が大谷光端によって『中央公論』を追われ、明治三十七年に『新公論』を創刊するに際し、桜井を支援して米峰たちが編集や執筆が加わったことになろう。そのような系譜を引き継ぎ、明治三十九年米峰は丙午出版社を設立に至る。それは山中孝之助や柘植信秀の協力を得てで、黒岩涙香の『人生問題』を処女出版として始まった。これは涙香が『新公論』の執筆者だったことに由来すると思われるし、この最初の一冊が好評だったために、幸先のよいスタートを切ったとされる。

ところで米峰の丙午出版社に寄り添った山中孝之助だが、彼は本連載525で既述しておいたように、南条文雄の「通俗仏教講義」シリーズを刊行していた井冽堂の発行者である。井冽堂は正式名を上宮教会出版部井冽堂とするもので、この教会長の要職にあったのは、やはり新仏教運動に参画していた加藤咄堂で、山中はその上宮教会の情宣月刊誌『聖徳』の編集に関わっていた。実際に加藤は新仏教徒同志会にも入会し、社会主義者たちとの交遊もあったことから、それが『新仏教』の誌面にも反映され、先の立項の秋水の『基督抹殺論』の出版へともリンクしていった。

しかし山中は明治四十二年に亡くなり、丙午出版社は昭和九年まで米峰の個人経営で続けられ、宗教や哲学を中心とする出版によって、とりわけ宗教界に大きな貢献を果たしたとされるが、三百点に及んだというそれらの書籍についてのまとまった目録や研究はまだ出現していないと思われる。ただひとつだけいえるのは、文明堂や井冽堂が初期の新仏教運動に同伴する出版社だったと見なしていいが、丙午出版社はそれらを引き継ぎ、ひとつの宗教出版の範を示すことになったのではないだろうか。

しかし昭和九年に開店時から鶏聲堂を引き受けていた姉の松枝を失い、それを閉じるとともに、丙午出版社も譲渡するに至り、米峰は東洋大学教授に就任した。すでに昭和四年に『新仏教』も廃刊となっていたし、ここに新仏教運動とそれに寄り添った出版も終わりを迎えたことになるのだろう。だがこのように新仏教運動と出版をたどってみると、それらが東洋大学と密接な関係にあったことが浮かび上がってくる。坂口安吾のような存在もまたその系譜に属しているのかもしれない。


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