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古本夜話673 丙午出版社と木村泰賢『原始仏教思想論』

ここに丙午出版社の書籍が二冊あるので、それらにもふれておきたい。その二冊は木村泰賢『原始仏教思想論』と新井石禅『修道禅話』である。両方とも裸本だが、いずれも大正時代の出版で、前者は菊判上製の専門書、後者はB6判上製の禅講話書といっていいだろう。
(『修道禅話』、国書刊行会版)

注目すべきは『原始仏教思想論』が大正十一年発行、十五年九版、『修道禅話』は同三年発行、十三年五版とロングセラーになっていることで、それは丙午出版社が大正時代を通じて、新興出版社から仏教書専門の版元として広く認知されたことも示しているし、それが新仏教運動の展開と連動していたことはいうまでもあるまい。

しかしそれでも驚いてしまうのは木村のまさに専門書に他ならない『原始仏教思想論』の五年間で九刷という売れ行きで、しかもそれは五円という高定価なのである。巻末広告には同じく木村の『印度六派哲学』『阿昆達磨論の研究』も掲載され、本連載655で既述しておいたように、『世界聖典外纂』の「印度六派哲学」と「印度の仏教」を担当していたことを想起させる。また同様に「支那の宗教」や「朝鮮の宗教」を書いている常盤大定の『仏典の解説』『釈迦牟尼伝』
、それらに加え、『世界聖典全集』編集、翻訳の中心人物の高楠順次郎の『巴利語仏教文学講本』『巴利語仏教文学講本字書』、木村との著書『印度哲学宗教史』なども並んでいる。

これらの事実は丙午出版社の仏教専門書刊行が、やはり同時代に出版されていた『世界聖典全集』と併走していたことを物語るものである。木村の「序」によれば、この「原始仏教思想」は阿含部聖典の思想をさしている。これは原始仏教研究の最重要資料であり、釈尊の説経をまとめた初期仏教聖典のことで、南方仏教圏ではパーリ後で書かれた根本聖典とされ、日本でも明治以降、独自の研究が進められていったという。木村の「専ら原典の巴利及び漢訳阿含、及びその律部のみを材料として立論」との言は、そのような動向に見合っているのだろう。

それとともに「本書は実に龍敦郊外Conlsdon にあつて起稿し、北区Highbury に移り大体を終り、更に、伯林に転じてより、之を訂正して脱稿」とあり、またこの大正十年十月付「序」は「独逸国キールにありて」と記されている。高楠順次郎や南条文雄などに続く近代日本の第二世代の国際的な仏教研究者の台頭を彷彿とさせる。木村は『世界宗教大事典』(平凡社)に立項が見出せるので、それを引いておこう。
世界宗教大事典

 きむらたいけん/木村泰賢/
1881−1930(明治14−昭和5)
 インド学・仏教学者。岩手県生れ。東京帝国大学印度哲学科卒業。宇井伯寿とともに高楠順次郎より学を受ける。《印度六派哲学》(1915)で学士院賞受賞。イギリス留学を経て《阿昆達磨論の研究》(1922)では新学位令による同大学最初の文学博士号を取得。1923年から急逝するまで同大学印度哲学科の教授を務める。主著に小乗仏教、アビダルマの煩雑な思想を達意な手法で整理・統合した《小乗仏教思想論》(1935)、《印度哲学宗教史》(1914、高楠順次郎と共著)などがあり、仏教学、印度哲学・宗教の分野に優れた業績を残した。

残念ながら『原始仏教思想論』への言及はないけれど、三部作と目される『印度六派哲学』や『阿昆達磨論の研究』は挙げられていることからすれば、木村は丙午出版社と併走していたと見なせるだろう。また丙午出版社も東京帝大印度哲学科とコラボレーションすることによって、仏教書専門出版社としての地位を獲得していったと思われる。

その一方で、丙午出版社は本連載670で既述した明治後期からの禅学の流行にも応じるように、新井石禅の『修道禅話』といった著作も刊行していた。それは奥付にある「禅学文庫」第四編という表示から、これがシリーズ物だったとわかるし、先述のアカデミズム系専門書と異なり、広く読者を想定して企画されたのであろう。著者の新井に関して、そのプロフィルはつかめないが、曹洞宗の寺をあずかる現職の僧だと推測できる。

新井の『修道禅話』は三十章からなる禅講話といっていい。その第一章は「平常心是道」と題され、「夜が明ければ起きる。起きれば洗面する。茶を飲む、飯を喫する、業務に就く、応接を為る、是れが吾人の平常心である」と説き起こされ、ひとつの講話が始まっていく。そのような三十話の集成が、この『修道禅話』ということになり、おそらく実際に新井が寺などで講話したものをまとめたものであろう。

本連載512で、南条文雄などの「通俗仏教講義」シリーズを紹介し、その内容がタイトルと異なり、学術的なものであることを既述しておいた。これらの真宗の講義に対して、曹洞宗の禅話は『正法眼蔵』なども引かれているが、より具体的でポピュラーな講話となっていることがわかる。それが参禅といった具体的な修行へと結びついていくのが、この『修道禅話』というタイトルにこめられているように思える。

なおやはり同時代に、発行者を比企間新造とする禅話叢書刊行会から釈宗活『悟道の妙味』が出されていて、これもやはり老師による禅門法話で、六冊の「禅話叢書」のようだが、詳細はつかめていない。また同じく発行者を今井助松とする日本禅書刊行会からも「仏教講話」シリーズの佐々木珍龍『先づ爾に与へん』が出されている。こちらの版元も定かでないが、大正時代にはこのような「禅話」や「講話」が多く出版されていたにちがいない。


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