出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話674 加藤咄堂『大死生観』、井冽堂、積文社

本連載671で、加藤拙堂が要職にあった上宮教会の出版部が井冽堂で、その発行者山中孝之助が丙午出版社の創業メンバーであり、明治四十二年に亡くなったことを既述しておいた。

それならば、井冽堂のほうはどうなったのだろうか。同じく書籍で比較してみる。本連載525の井冽堂の南条文雄『忘備録』は明治四十年刊行だったが、こちらは同四十一年十二月発行の加藤咄堂『大死生観』が菊判上製、索引も合わせれば七〇〇ページに及ぶ大冊である。しかし山中孝之助は翌年に没していることから考えても、発行者を退いていたと推測できる。その代わりに発行者は山中精二となっているが、これは孝之助の近親者で、彼がその役目を代わりに引き受けたことを示している。それによれば、山中の死は四十一年だったようだ。その事情は加藤の序文に当たる「緒言五則」にも、次のように述べられている。
〈郊外〉の誕生と死 (史籍出版版)

 本書稿半ば成りて将に上んとするに当り、山中孝之助氏、俄然病魔の侵す所となつて終に不帰の客となる。著者と山中氏とは単に出版者としての関係にあらずして実に莫逆の友たりしなり。其の訃音に接して哀悼の情切に、著者の意気沮喪して暫く其の稿を絶つに至りしが氏の遺族志を継で之が上梓を企てんとして著者を促して稿を続けしめ、荏苒六閲月、初めて稿を起してより一年有半にして漸く成る。書成つて其の人なく追憶の禁ずべからざるものあり。

山中精二がその「遺族」だったことになる。それだけでなく、発行者はもう一人いて、柳原喜兵衛の名前が併記されている。それに見合うように、発売所も上宮教会出版部山中井冽堂と関西発売所の積文社が並び、後者の住所は柳原と同じ大阪市東区との表記がある。柳原は大阪の大手取次の経営者であることを考えれば、積文社はその子会社の出版社と見なしていい。これらのことはこの『大死生観』』が二社の合版による刊行を伝えている。責任者だった山中孝之助が病で不在になったことと、大冊の刊行ゆえに、出版リスクを分け合う出版形式を採用したと思われる。

しかしあらためて巻末の「井冽堂発売書目」を見ると、咄堂の著書が最も多く、十冊以上に及び、その一冊の『演説文章応用修辞学』宣伝コピーには「文名嘖々江湖に知られた加藤咄堂先生は又我が国屈指の雄弁家なり」との言も見えている。ここにも「雄弁家」がいたのだ。本連載525でも少しばかりふれているが、ここでも『日本近代文学大事典』などを参照し、簡略なプロフイルを提出しておく。
日本近代文学大事典

加藤は明治三年京都府生まれで、英吉利法律学校に入り、大内青巒たちと交わり、仏教学を修めた。民衆強化を念願とし、仏教や修養に関する著述をなすかたわら、全国を遊説した。これが井冽堂の著作につながり、「雄弁家」としての名を高めたのであろう。そして明治三十年代に入り、新仏教運動に参画し、社会組織の改革の必要性を説き、権勢に迎合する仏教伝道を廃せと訴え、著書も発禁となったとされる。その一方で上宮教会長を務め、山中を「莫逆の友」として、井冽堂の出版にも関係するようになったのであろう。しかも主著として、他ならぬ『大死生観』が挙げられているし、また東洋大学教授にも就任している。これもまた新仏教運動と東洋大学のつながりを伝えていよう。

さてここでもう一度井冽堂の『大死生観』の巻末広告十一ページ、七十点ほどの書籍のことに戻るのだが、これらは「井冽堂発売書目」「同発行書目」と謳われているけれど、すべてが井冽堂刊行のものではない。そこには鴻盟社とある七点の他に、明らかに丙午出版社とわかる単行本が見られる。それらは本連載650の杉村広太郎『七花八裂』同515のマックス・ミュラー『宗教学綱要』、ポール・ケーラス、鈴木大拙訳『阿弥陀仏』、黒岩周六『人生問題』などである。また同558の文明堂のものとして。これも杉村訳『改訂増補強肺術』が挙げられる。これらは確認できたものだけなので、実際にはあらに多いと見なせよう。

こうした複数の出版社も含めた井冽堂からの「発売」や「発行」を伴う巻末広告にはどのような販売流通事情が秘められているのだろうか。それを推理してみる。いずれにしても、その理由は奥付にある関西発売所の積文社との提携に要因が求められると考えるしかない。井冽堂は大冊の『大死生観』を新刊発売するに及んで、製作コストと山中孝之助の死の問題に絡み、柳原と合版での出版を選択した。それは製作費の折半ということだけでなく、関西での取次による流通の開拓をも意味していた。

ところが出版点数の問題もあり、同様に仏教書出版をメインとする鴻盟社、丙午出版社、文明堂にも呼びかけ、井冽堂を関西に対する仲間口座窓口とする取次流通ルートを提案した。それに対して、鴻盟社や文明社も小出版社、丙午出版社も創業したばかりであるから、まさに渡りに船という感じで、井冽堂の提案、もしくは柳原の希望に応じたのではないだろうか。そのように考えてみると、『大死生観』における、いわば巻末合同広告の意味が了解できるように思われる。しかしそれが功を奏したとは限らないし、山中孝之助亡き後の井冽堂の行方は確かめられていない。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら