出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話675 有光社、大谷光瑞『蘭領東印度地誌』、澁川環樹『蘭印踏破行』

本連載671でも既述したように、新仏教運動の盛り上がりのひとつのきっかけは、西本願寺の大谷光瑞による桜井義肇の処遇にあった。桜井は『反省会雑誌』時代から編集実務に携わり、タイトルが『中央公論』に代わってからも編集主任を務め、同時に高輪仏教大学(後の龍谷大学)の教授も兼ねていた。ところが本願寺による同大学の京都引き上げの決定に反対したことで、『中央公論』を追放され、大正十年に『新公論』の創刊に至るのである。

その大谷光瑞のほうは明治後期から大正にかけての西本願寺法主であり、明治三十五年から大正三年にかけて、三次にわたって大谷探検隊を組織し、仏教東漸の遺跡を探る中央アジア調査を行ない、当時の日本の敦煌学に大きな影響を与えたとされている。その探検は有光社の大谷家蔵版『新西域記』としてまとめられ、大谷については杉森久英『大谷光瑞』(中央公論社)や津本陽『大谷光瑞の生涯』(角川文庫)といった伝記が書かれるに至っている。

大谷光瑞 大谷光瑞の生涯

また同じく有光社から『大谷光瑞全集』全十三巻、その他にも大谷の「南進論策の三大著」として、『蘭領東印度地誌』、『台湾島之現在』、『興亜計画』全十巻などが刊行されている。これらのうちの『蘭領東印度地誌』は入手していて、昭和十五年の出版である。それには「著者の蘭印往来廿有五年に及び、現に自ら農場を経営し住居を構ふ。蘭印を説くに此人の右に出ずる者絶対に無く、加ふるに該博なる知識と一世風靡の一代識見とは本書の価値を決定ならしむ」との内容紹介が付されている。まずカラーの「蘭領東印度全図」が示され、その地域、地形と地質、気象、物産、交通、住民、歴史がたどられ。詳細な「重要統計表」も付され、「蘭印は我帝国の事実上の隣国なり」として、まさに「南進論」を説いていることになろう。

『台湾島之現在』も、「南進政策喫緊の好著! 本書は興亜計画中『熱帯農業』と姉妹篇をなし、著者の主唱する我国南進政策の遂行上、朝野の認識を一新せんとするものである」とのキャッチコピーが寄せられている。台湾は日本における唯一の熱帯産業地で、その全産物は満洲国のそれに匹敵するとの言も見える。そして支那を対象とする『興亜計画』においても、第六巻から第九巻までが『熱帯農業』篇で占められ、これらの大谷の「南進論策の三大著」が東亜大陸から台湾、蘭印にかけての熱帯圏の農業を中心にして論じられていることがわかる。

大谷は大正時代においては西域探検家、昭和に入ってからは南進論者と変貌していた。有光社は本連載で幾つも挙げておいた新仏教運動と併走した出版社と異なり、大東亜戦争下で大谷に寄り添っていた版元だったことになる。しかも有光社は大谷ばかりでなく、南進論にも寄り添うように、やはり同時期の昭和十六年、澁川環樹の『蘭印踏破行』という一冊も刊行している。それは次のように始まっている。


 がらんとした波止場には見送人(みおくりにん)の影はなかつた。いやもつと正確にいふと、私を送つてきたYがたゞ一人の見送人であつた。南への船への乗込時間が迫つてゐるのに、旗立つ人、見送る人のさまゞゝな感情が交流するあの出帆時の情景はどこにも見出せぬ神戸の波止場であつた。
 オランダへドイツ軍が侵入して世界を震撼させたその日から三箇月たつた真夏、私は読売新聞社の特派員として蘭印諸島を視察せよとの社命をうけた。わが国民の視聴が新たなる角度から蘭印に注がれはじめた時であつた。

この冒頭の記述から澁川が読売新聞社の特派員で、昭和十四年八月のことだとわかる。にわかに蘭印に蘭印に渡る人々が増え、南洋海運の船は満員で、澁川は船賃が三割も高いオランダ汽船のチリボードに乗るしかなく、日本人客は彼一人だった。従軍記者として上海、蘇州、南京へも赴いていたが。今度はジャバ、スマトラ、ボルネオ、セレベスへと向かうのだ。それを「カメラとペン」で記したのが、この『蘭印踏破行』ということになる。大谷の『蘭領東印度地誌』にも収録されていた『蘭領印度全図』に加え、「著者蘭印踏破コース」も付されている。また同書をひときわ印象づけているのは、アート紙一ページをつかった写真など二百枚の収録で、大谷の「地誌」と「重要統計表」からなる一冊と異なる、「踏破行」的な趣きに包まれている。

それらのモノクロ写真を見ていると、そこにイメージとしての大東亜共栄圏が存在したようにも思えてくる。もちろんいずこの土地にしても様々な神話と伝説、オランダ植民地の葛藤が内包されていることは承知しているけれど、これらの南島の人たちも柳田国男のいうところの「海上の道」をたどって、古代日本へと至ったであろうことも。

『蘭印踏破行』の「カメラ」にばかり言及してしまったが、「ペン」のほうもカメラアイのように風景と生活と人間を捉え、澁川が優れた文章家であることを伝えている。その例として、セレベスの地でのクロージングの一文も引き、本稿を閉じることにしよう。

 私は夕暮メナドの町へ帰つた。カラバット山は深い眠に落ちようとしてゐた。すでに地の涯に北極星の輝く土地である。あすは一路故国への旅。四箇月の蘭印各地の憶ひ出が次々にこみあげてきた。そしてそのなかにたえず明滅するのはみんな悲哀にうるんだ瞳をもつ忘れ得ぬ土人たちの顔であつた。私の心をひた走る一条の火が激しい旅愁を打ち消していつた。


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら