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古本夜話677 東日大毎近衛賞「政治小説」と松永健哉『海の曙』

前回、『純粋小説全集』刊行記念としての「一千円懸賞長篇小説」にふれたが、もうひとつよく知られていない賞があるので、これも続けて書いておきたい。

それは「東日大毎近衛賞『政治小説』」であり、私も松永健哉の『海の曙』を入手して知った次第だ。この小説は昭和十六年に第一公論社から刊行されている。この出版社は発行者が加藤啓太郎、住所は京橋区銀座となっているが、すでに本連載366で言及しておいたように、上村哲弥が立ち上げた版元である。彼は満鉄を経て、これも同564の東亜経済調査局に入り、それから満洲国文教部学務司長となり、昭和十四年に第一公論社を創業し、満鉄総裁松岡洋右の援助を受け、急進右翼雑誌『公論』を創刊に至っている。

『海の曙』の自序には「第一公論社植村先生御兄弟」への謝意が記され、その巻末目録には松岡洋右の『昭和維新』などの三冊、上村哲弥の『親たるの道』といった、これも三冊が並び発行者は加藤とされているけれども、創業事情がそのまま出版物に表われている。近衛文麿の『尽忠報国の精神』と同様で、「東日大毎近衛賞」とは東京日日新聞、大阪毎日新聞社が近衛「新体制建設の運動に文学を直接参加させ日本文学の新らしい活動面を開拓すべく」、百五十回分の新聞小説として、広く一般から募集した「政治小説」に与えられる賞である。それには既成作家、隠れたる文筆家も含んで、三百数十篇が寄せられ、予選通過の三篇に対し、奨励金各二千円が贈呈され、新聞小説としての当選作とはならなかったものの、『海の曙』が第一位となり、ここに出版に至ったとされている。

また思いがけないことに、『日本近代文学大事典』に松永が立項されていたので、それも示してみる。

 松永健也 まつながけんや 明治四〇・八・一六〜平成八・二・一九(1907〜1996)教育家、小説家。長野県野母崎生れ。昭和九年東京帝大教育学科卒。東京で教職についたのち、南支報道班員、日本青年団本部、教育科学研究所部長、長欠児童生徒援護会常務理事、名古屋保険衛生大学教授等教育界で活動、小説は『民族の母』(昭和一六 昭和書房)『海の曙』(昭和一七 第一出版社)、郷土を舞台の『二重潮』(昭和四〇・一〇 真髄社)『かげろう』(昭和四一・二 真髄社)『少女スナマ』(昭和四六 黄十字社)など、長編がある。黄十字社代表。

ここでの『海の曙』の刊行年と出版社名は間違いであろうし、「日本青年団本部」とあるのも、松永の「自序」には『海の曙』執筆中、「大日本青少年団本部」に勤務との既述が見えているので、後者が正しいか、もしくは双方に所属していたと思われる。だがそれらはひとまず置き、B6並製の表紙も半ば取れかかり、背表紙のタイトルや著者名も定かでない六百枚五五一ページの、菊池寛、久米正雄、木村毅たちが選者だったという「政治小説」を読んでみよう。明治時代ならぬ、大東亜戦争下の「政治小説」とはどのようなものであるのだろうか。

『海の曙』は昭和十五一年の天草灘の貧しい漁村を舞台として始まり、十六年の元旦までという五年間の物語である。それは日支事変が起き、政府は国民の戦争協力のための国民精神総動員運動に乗り出し、国家総動員法も公布され、近衛文麿による新体制運動も始まり、内務省は部落会や町内会の整備にかかり、本連載618などの大政翼賛会も発足していた。これらは『海の曙』のバックヤードと称すべき国家としての「大きな物語」であるが、この作品においては小学校と青年学校教師を兼務する若い杉浦を主人公として、貧しい漁村での「小さな物語」が展開されていく。

それはトロール船による漁業禁止区域での密漁、漁師と船主との関係、若者宿と男女の関係、部落問題、村の政治と金融資本と権力闘争として描かれる。そうした漁村状況の中で、杉浦は次のようなキャラクターとして造型されている。

 高等師範に進む時は、漠然たる社会的関心から、「歴史・経済」といふ文字に近代的な魅力を覚えたのであつたが、三年半の教壇生活の間に、今では、教育や心理に興味の中心があつた。
 それらを学問的に深く学びたい一念に駆られながら、一方子供たちへの愛着も捨て得なかつた。成人する教へ子の将来に喜びを見出すといふ達観した教育者の自覚からではなく、子供たちに触れることそのものが一切を忘れさせた。

これに続いて、そのような教師は「全国二十八万の小学教師の中にも少くないであらう」との記述も見える。おそらく松永の教育者としての理念とあらまほしきイメージが杉浦に託されているのだろうし、『海の曙』の様々なエピソードにしても、その多くは松永が実際に教育者として体験したことに基づいているにちがいない。

それらに加えて、『海の曙』は田山花袋の『田舎教師』、部落問題からすれば、文中にも出てくる島崎藤村の『破戒』、また本連載141でふれ、選者も指摘している島木健作の『生活の探求』の影響をただちに思い浮かべてしまう。杉浦のような教師とキャラクターと漁村の「小さな物語」の数々が、近衛首相の新体制運動がクロスしたところで、この政治小説『海の曙』は成立したといえよう。
田舎教師 破戒生活の探求


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