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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話680 養賢堂、「東亜共栄圏国土計画資料」、田中長三郎『南方植産資源論』

昭和十年代後半における南進論関係の出版ブームは、本連載584585などでも既述しているが、多くの出版社が参画していったようで、それは養賢堂のような農業書の版元も例外ではなかった。養賢堂に関してはこれも同528で少しだけふれているけれど、このような機会でしか言及できないと思うので、『出版人物事典』の創業者と版元プロフィルを紹介してみる。
出版人物事典

及川伍三治 おいかわ・ごさんじ】一八八九〜一九七八(明治二二〜昭和五三)養賢堂創業者。仙台市生れ。一四歳で状況、書肆裳書房に入社、一九一四年(大正三)独立して、日本橋上槇町に養賢堂を創業。工学・農業・生物学など一貫して理農工に関する出版を続けた。三五年(昭和一〇)株式会社に改組。雑誌も『農業および園芸』(大正一五刊)、『畜産の研究』(昭和二一刊)『機械の研究』(昭和二三刊)を創刊、いずれも長い伝統をもち、今日に続いている。単行本も『農学大事典』『畜産大事典』など、農学界を代表する出版も行った。日本出版クラブ顧問、日本書籍出版協会相談役をつとめた。

ちなみに養賢堂とは仙台藩の藩校名に由来するという。

最近送られてきた古書目録のとんぼ書林のところに、この養賢堂の山根甚信『東印度の畜産』(昭和十八年)という一冊があり、以前にやはり同様の養賢堂の本を均一台から拾ったことを思い出した。探してみると出てきて、それはやはり昭和十八年に刊行された田中長三郎の『南方植産資源論』だった。それには「東亜共栄圏国土計画資料」とあり、著者の田中は台北帝国大学教授、技術院と調査研究連盟嘱託、農学博士の肩書が付されている。同書は菊判上製二〇〇ページに及び、「自序」によれば、大学で熱帯有用植物学を講ずるかたわらで、『農業及園芸』に連載したものであり、その目的は「緒言」に次のように述べられている。

(前略)今や大東亜戦争の勃発と共に南方資源は悉く我が手中に帰し、期せずして我国は世界最大の持てる国の一となつた。所が此の厖大なる資料を如何に活用し如何に生長せしめるかは我国の双肩に懸けられた重大な責任となつた。而して大東亜共栄圏の自給自足を主張して本稿を起した著者は今日は現存資源に対する調整を考案せざる可からざるの光栄ある位置に立つた。(中略)南方に於ける是等資源の真相を伝へ、其の戦前に於ける状況竝に現況に対する対策、将来の計画に対する愚見を述べ、当局を動かして至急確立を必要とする大東亜共栄圏の国土開発計画に資する事を得ば幸甚である。(後略)

そして大東亜共栄圏は欧羅巴・アフリカ共栄圏、アメリカ共栄圏、ソ連共栄圏と並ぶ四ブロックのひとつに挙げられ、それは少なくとも日本、満洲、中国、東インド、仏領インドシナ、タイ、ビルマ、フィリピン、マレー諸島の九ヵ国を含むものだとされる。それに従い、大東亜共栄圏の面積、人口が算定され、前者が世界の12%、後者が同33%、世界貿易額が10%と見なされ、さらに「大東亜共栄圏の重要資源の世界産額に対する割合」も提出に至る。それらは26に及び、その生産事業のひとつとして、農業や林業の他に「熱帯のみに限られた特殊植産業形態たる『栽培企業』(Plantation)」に注視し、これが白人による植民地開発に基づくもので、大東亜共栄圏にあっては国土計画から考えても、転換期に直面していると述べている。

これらの現実を踏まえ、ゴムや砂糖を始めとする栽培企業作物、米などの普通作物、森林資源、飼料植物、有毒植物が写真入りで論じられていくのである。それらに目を通していると、室伏高信の『南進論』において、本人も述べていたように、「夢の書」における机上の論だったものが、具体的に肉付けされていったことがわかる。いってみれば、南進論ブームとは大東亜戦争下における出版社と、田中のようなそれぞれの専門家たちがまさに総動員されることによって起きたと見なせるだろう。

田中の立項も『現代人名情報事典』(平凡社)に見出すことができたので、それも示して本稿を閉じる。
現代人名情報事典

 田中長三郎 たなかちょうさぶろう
果樹園芸学者(生)大阪1885.11.3〜1976.6.28(学)1910東京帝大農科大学(博)1932農〈温州蜜柑譜、特ニ芽条変異ニ拠ル新変種ノ発生ニ就テ〉、54理(経)東京帝大農科大学助手、上田蚕系専門学校講師を経て渡米、アメリカ農務省植物技師補、帰国後、九州帝大講師、宮崎高等農林教授、1929台北大学教授、44名誉教授、のちGHQ技術嘱託、48東京農業大教授、55カリフォルニア大学名誉教授、大阪府立大教授、のち名誉教授、(著)1976年《世界食用食物事典》、他に《柑橘学》《温州蜜柑譜》《果樹分類学》《柑橘の研究》

なお『南方植産資源論』に付されていた嘱託としての技術院は、昭和十七年に内閣外局として設けられたもので、二十年九月まで存続し、その後身として三十一年に科学技術庁が発足している。それは二十六年に自由党科学技術振興特別委員会が政府にその設置を申し入れ、日本学術会議の反対決議にもかかわらず、経団連と経済同友会の建議のもとに総理府外局として設立され、総理府内局の原子力局、付属の資源調査会や事務局などを統合し、スタートしている。したがって、技術院、敗戦と占領、原子力と科学技術庁がリンクしていることになり、田中のGHQ技術嘱託もまた何らの因縁を想起させるのである。


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