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古本夜話740 須井一『清水焼風景』

 これも例によって浜松の時代舎で見つけ、購入してきた一冊だが、須井一の『清水焼風景』という小説集がある。これは五編の中編、長編が収録され、そのうちの長編がタイトルになって言う。改造社から昭和七年に刊行されているけれど、作家名を初めて目にするし、『日本近代文学大事典』を繰ってみても、その名前は出てこない。
日本近代文学大事典

 「まえがき」に当たる須井の「読者諸氏へ」を読むと、他の四編は雑誌に発表しているが、『清水焼風景』は未発表で、初めて「労働者大衆をとりあつかつてみたもの」、「わがプロレタリア文学が、過去幾年かの歴史を経て漸く築き上げたところの唯物弁証法的創作方法に、出来るだけ忠実に拠らうとした」作品とされる。また須井が小説を書き出してから、まだ一年余りで、作品数もこれがほとんどすべてであること、林房雄の激励によって創作を勧めたことなどがしたためられている。

 タイトルに示された『清水焼風景』は京都の清水焼の工場地域を舞台とし、いわば資本家に対する労働者の闘争を描いたもので、その背景には第一次大戦後の世界的大恐慌と金融引き締めに伴う産業合理化がある。伝統的手工芸の清水焼は、瀬戸や美濃の機械化した大資本に圧倒され、破産寸前の状態に追いやられ、そこに職人的労働者と窯を有する製造家との闘争が始まっていく。

 このような内容ゆえに、同書の半分以上を占め、二四〇ページに及ぶ『清水焼風景』は伏せ字だらけで、当局の検閲を意識して編集されたことを示している。それは労働者の集会を見張る岩松淳の装幀の絵にも顕著で、岩松のほうは『日本近代文学大事典』に見え、プロレタリア系の画家とされる。そこまではわかったけれど、須井に関してそれ以上の手がかりがつかめずにいた。ところが水島治男の『改造社の時代・戦前編』に、その須井が出てきたのである。水島は書いている。

 昭和七年、有力な新人があらわれた。須井一である。処女作「棉」をもって登場した。「棉」が発表された雑誌は、いまではおぼえていないのだが、それは商業誌ではなく、ナップ系の雑誌だった。『改造』では昭和七年十月号に「樹のない村」をもらっている。ところが同月の『中央公論』にも「幼き合唱」が載っているのである。流行作家が他の有力誌に同時に作品を発表することがあっても、新人が有力誌にかけもち発表することは、きわめてめずらしいことだったのである。須井一とはいかなる人物であろうか、地下にもぐっているのをこちらから訪ねていって、依頼したものか、書かせてくれといってきたのか、いま、まったく記憶していない。(中略)十二月には大宅壮一塾から、須井一の長編小説「清水焼風景」が持ちこまれ、改造社から発行された。(後略)

 ここに挙げられた「棉」も「樹のない村」も「幼き合唱」も『清水焼風景』に収録されているし、これで同書の改造社からの観光事情が判明したことになる。

 しかし水島の須井をめぐる話には後日譚があり、それも続けて書かれている。それによれば、須井が水島を訪ねてきて、須井一は実在の人物がいて、自分の友人で小学校の先生をしているので、この筆名で有名になると本人に迷惑をかけることになる。だから「加賀耿二」の筆名に変更したいが、それでも原稿をとってもらえるかという相談を受けた。これは水島の一存では決められないし、改造社の会議にかけられ、作品本位だし、また新人が現われたことにすると決められ、加賀名での再出発は『改造』の九年十月号の「工場へ」からで、四回発表しているという。

 だがこれで終わらず、まだ続きがある。昭和十四年に水島は改造社を辞め、東亜公論社という小出版社に携わっていたが、そこに加賀が現われ、支那旅行にいくので、知り合いへの紹介状を頼まれた。その際に河上肇の個人雑誌『社会問題研究』の編集を手伝い、「十三」という匿名で様々な論文を発表していたとの「正体の一端」をもらしたのである。そして水島はさらに最後の落ちとして、「彼は戦後早々、京都から共産党員として、衆議院選挙に立候補して見事に当選した。その名は『谷口善太郎』」と結んでいる。

 あらためて『日本近代文学大事典』を繰ってみると、加賀耿二は立項され、本名谷口善太郎、別名須井一とあるではないか。明治三十二年石川県生れ、大正六年に京都で清水焼の陶工となり、京都陶器従業員組合などを創立し、その組合長となる。つまり『清水焼風景』は自らの体験をベースにしているとわかる。その後日本共産党に入党し、昭和元年の日本労働組合評議会創立に際し、中央常任委員となり、労働運動活動家の道を歩むが、三年の三・一五事件で投獄され、肺病のために自宅監禁中に「棉」などを書き出し、須井一とうプロレタリア作家として登場したことになる。
 なお水島は記していないが、昭和十五年にその東亜公論社から加賀耿二『工場へ』が刊行されている。また新日本出版社の『日本プロレタリア文学全集』29として、『谷口善太郎集』(昭和六十一年)が編まれ、そこには伏せ字なしの『清水焼風景』も収録されている。

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