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古本夜話741 葦牙書房、森本六爾、松本清張「断碑」

 本連載737において、小林行雄が在野の考古学者で、浜田耕作に認められ、京大考古学研究室助手となったことを既述しておいた。彼は森本六爾たちの東京考古学会にも加わっていた。

 その東京考古学会に関連して、葦牙書房の肥後和男『文化と伝統』の巻末に、「東京考古学会刊行書目」が掲載されていたことを思い出した。同書は昭和十七年に藤森栄一を発行者として出されたもので、奥付の発行所名は「あしかびしょぼう」とルビがふられている。B6判函入、三四五ページ、函と背にタイトル、著者、出版社を記した題簽が貼られ、本扉には「肥後和男歴史評論集」とある。その一編は「葦牙(あしかび)」と題され、それが『日本書紀』の「天地の中のひとつの物なれり。かたち葦牙の如し。すなわち化(な)りませる神を国常立尊とまうす」に見えていることを教示してくれる。これは問わず語りのように、ここから出版社名もとられたことが示されている。

 肥後は京都帝大史学科出身で、その「著作書目」によれば、昭和十年代に河出書房や弘文堂などから十冊以上の日本古代史研究書を出していて、『文化と伝統』刊行当時は東京文理大で教鞭をとっていたと思われる。葦牙書房から同書が出されたのは、肥後が東京考古学会編輯の『考古学評論』の寄稿者で、その版元が葦牙書房だったことによっているのだろう。

 やはり確認してみると、巻末に「東京考古学会刊行書目」が見出され、小林行雄に加え、本連載738の『古代の南露西亜』の訳者の坪井良平の名前もあった。それらをリストアップしてみる。これもナンバーは便宜的に振ったものだ。

 1 森本六爾編『日本原始農業』
 2  〃   『日本原始農業新論』
 3  〃   『日本先史土器論』
 4 坪井良平 『仏教考古学論叢』
 5 杉原荘介編『日本文化の黎明』
 6 坪井良平編『歴史考古学研究』
 7 源豊宗、田中重久著『法隆寺建立年代の研究』
 8 森本六爾著『飛行機と考古学』
 9 森本六爾、小林行雄書『弥生式土器聚成図録』
 10 坪井良平著『慶長末年以前の梵鏡』
 11 森本六爾、坪井良平編『考古学年報』全九冊
 12   〃     『考古学』全百拾壹冊 

 これらの他にも単行本として、森本六爾『日本農耕文化の起原』、直良信夫『古代の漁猟』、篠崎四郎『大和古印譜』、後藤守一『日本の文化黎明篇』、セイス、坪井良平訳『原始技芸論』が掲載され、セイスの内容紹介には坪井が東京考古学会主幹とある。しかし「同刊行書目」から見ても、森本六爾の存在感は圧倒的なので、『現代日本朝日人物事典』の立項を引いておこう。
f:id:OdaMitsuo:20171220102659j:plain:h110 [現代日本]朝日人物事典

 森本六爾 もりもと・ろくじ 1903.3.2~36,1.22
考古学者。奈良県生まれ。1920(大9)奈良県立畝傍中卒。小学校代用教員や東京高師(のちの東京教育大)副手などを務めつつ、考古学研究会(のち東京考古学会と改称)を創立。弥生時代に稲作農耕が存在したことを考古学的に解明、弥生文化研究の基礎をつくった。雑誌『考古学』を主宰し、在野の考古学者の育成に活躍した。若くして死んだが、その研究成果は、『弥生式土器聚成図録』(39年、小林行雄と共著)、『日本農耕文化の起原』(41年)、『日本考古学研究』(43年)などに結実している。松本清張の小説「断碑」の主人公は森本をモデルとしている。

 この立項によって、森本の死が昭和十一年だとわかる。それは先に挙げた葦牙書房の森本の著書、ここに見える三著が森本の死後に刊行されたこと、それらは彼が『考古学評論』や『考古学』に発表した論文を、東京考古学会が編んだものであることを示唆している。

 それらの事実を踏まえ、松本の「断碑」(『或る「小倉日記」伝』所収、新潮文庫)を読むと、主人公の「考古学界の鬼才」木村卓治が「その専攻の考古学に関する論文を蒐めた二冊の著書を遺した」と始まっている事情が了承される。小説の中で東京に出た木村は考古学アカデミズムからそねまれ、排除されていく一方で、彼の周りには考古学研究者たちが集まり、その一人は「T」とイニシャルで呼ばれ、梵鐘研究者だと説明されれている。そして木村はアカデミズムの『考古学論叢』を批判し、そこに書くことができなくなったので、グループを結集し、中央考古学会を組織し、その機関誌『考古学界』を出す。「断碑」ではそれに関して、「会費は分担といっても主に資本家のTが出し、雑誌の編集は卓司が受持った」とある。
或る「小倉日記」伝

 これは『考古学論叢』が『考古学評論』、中央考古学会が東京考古学会、『考古学界』が『考古学』、梵鐘研究者で「資産家のT」が坪井良平だと判断できる。それは「東京考古学会刊行書目」の10の坪井の著書、11の『考古学年報』と12の『考古学』の編者が坪井と森本の連名になっていることからも明白であろう。

 さてこの「同書目」の編者や著者ではなく、発行者の藤森栄一にも言及しなければならない。藤森もまた在野の考古学者で、東京考古学会の森本に師事していた。「断碑」の中に『考古学界』同人として、これもイニシャルで「F」が挙げられているが、これは藤森をさしているのかもしれない。

 藤森の戦後の自伝として、『考古学とともに』(講談社、昭和四十五年)が出されている。その第一章の「混乱期」の二節目は、「葦牙書房」とあり、そこには戦前に葦牙書房が神田岩本町に住所を置き、日本古代文化学会事務所も兼ねられていたけれど、それが敗戦後はボルネオ出征中の藤森に代わって、その夫人が信州諏訪に移転させていたことが語られている。そして開店休業中だった葦牙書房が「あしかび書房」として再出発し、森本の『日本農耕文化の起原』と直原の『古代の漁撈(ママ)』を再版し、また自らの『考古学』の埋め草随筆『かもしかみち』も出版してベストセラーとなり、「県内一流の出版元にのし上がった」ことにもふれている。だが肝心の戦前の葦牙書房には及んでおらず、まだそのプロフィルをつかむに至っていない。

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 その後、藤森の森本六爾伝『二粒の籾』(河出書房、昭和四十二年、『藤森栄一全集』第5巻所収、学生社、同五十四年)を後者の版で読んだ。そこには松本が「断碑」で参照したと思われる森本の写真類が収録され、松本が執筆に当たって藤森を取材していたことを知った。また森本が三十三年の短い生涯に十冊の単行本と百六十余の論文を書いたこと、『考古学』が最初は岡書院から出され、その頼りとする若い協力者が樋口清之だったことなどを教えられた。それで「H」という年若い学徒が樋口だとわかる。しかしやはり葦牙書房に関しては語られておらず、依然として定かではない。
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