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古本夜話742 松本清張「断碑」のモデルと濱田耕作『東洋美術史研究』

 前回の松本清張の「断碑」は在野の考古学者森本六爾をモデルとする小説だが、森本を木村としているように、多くの人物が仮名となっている。その中で、鳥居龍蔵は実名で登場し、森本の弟子に当たる人々はイニシャル処理され、人名はフィクションとノンフィクションが混在するかたちである。
或る「小倉日記」伝(「断碑」)

 それは>「断碑」の発表年が昭和二十九年で、まだ存命中の関係者が多いこと、とりわけ彼らが考古学アカデミズムの権威として評価され、モデル小説のキャラクターとしては権威を傷つける要素を孕んでいたことから、そのように配慮されたのであろう。それらの人々の見当はついていたけれど、藤森栄一の『二粒の籾』を読むことで確認できたし、ここで取り上げておきたい。本連載にこれからも出てくるからだ。その前にふれておけば、この森本六爾評伝のタイトルは森本夫妻をさしている。それを前置きとして、登場人物たちを挙げていこう。

f:id:OdaMitsuo:20171220112351j:plain:h110(『二粒の籾』)

 小学校の代用教員の木村が最初に考古学の教えを受けたのは、京都大学助教授の杉山道雄だった。彼の学歴は木村と同じ中学校だけで、考古学の勉強によって、現在の地位を得ていた。しかし杉山は木村の態度に煩わしさを覚え、木村はそれを感じ取り、杉山から離れていく。これは梅原末治である。

 次の高崎健二は東京高師出身の博物館の歴史課長で、かつて木村が出た畝傍中学の教師を務め、その地で考古学を勉強し、古墳墓の研究を主としていた。こちらは上野帝室博物館にいた高橋健自だ。彼は『考古学雑誌』主幹で、博物館考古室での助手雇用予定があるのでと木村の状況を誘う。木村は杉山に別れの挨拶にいくと、杉山は熊田良作先生に会っていくようにといわれ、熊田に会う。彼は京大の教授らしい初老の紳士で、梅原を京大に招いた人物のようだった。

 しかし考古室の佐藤卯一郎にも会ったが、もう一人候補者がいて、そちらは大学の史学科卒だったので、事務官が木村の採用に反対し、博物館入りは水泡に帰してしまった。そこで高崎は先輩の東京高師校長の南恵吉に頼み、木村をその助手に採用してもらった。だが木村はその事情を知り、高崎を見識のない学者として恨んだ。この佐藤は前回の葦牙書房から『日本文化黎明篇』を上梓している後藤守一、南恵吉は日本史学界の長老で考古学会会長三宅米吉博士である。

 そのかたわらで、木村は鳥居龍蔵夫妻の媒酌で結婚し、中央考古学会を組織し、『考古学界』を創刊していくが、そこで従来の考古学者を批判したことから、杉山、高崎、佐藤のところに出入り禁止となる。また南の死で仕事も失う中で研究に励み、浜田は彼らを圧倒してしまった。そして「フランスに行って箔をつけたい」と思いこみ、パリに向かい、「一年の滞仏は空虚」でもあり、病を得て帰朝する。だがもはやアカデミズムからは相手にされず、『考古学界』グループの中にあって、病のために鎌倉に転居し、弥生式文化と農業の起原の研究に打ちこんだ。だが木村の結核は妻にも感染し、彼女は奈良の田舎に隔離され、彼は鎌倉から京都に移った。

 そのことについて、松本は「断碑」の中で書いている。

 彼を京都に呼んだのは京都大学の総長になっていた熊田良作である。この温厚な考古学界の長老は卓治の窮状を見兼ねたのだった。彼の才能を前から認めていたのである。
 何かの名目を与えて、自由に考古学教室に出入りをゆるした。

 これによって熊田が濱田耕作をモデルとしているとわかる。先の熊田に関する記述では喜田貞吉とも考えられたので、濱田と特定できなかったのである。この際だから、『現代日本朝日人物事典』から濱田の立項の前半を引いておこう。
[現代日本]朝日人物事典

 濱田耕作 はまだこうさく 1881.2.22~1938.7.25 考古学者。大阪府生まれ。号は青陵。1905(明38)年東大史学史卒。1917(大6)年京大に設置されたわが国初の考古学講座の教授となり、教室を率いて近代考古学の興隆に大きな足跡を残した。37(昭12)年京大総長となり在任中死去。ヨーロッパ留学中、ペトリー博士に師事して得たイギリス考古学の野外調査訃報と遺物の型式学的研究をわが国で推進し、研究報告書の刊行を責務とし、自らも努めた。(後略)

 この立項に従えば、私たちは現在でも多くの考古学の野外調査、発掘、遺物に関する研究報告書を見ているが、それは濱田に起源が求められることになるし、京大博物館の充実も彼の貢献によるとされる。

 その濱田の著書を一冊だけ入手している。それは本連載738の座右宝刊行会から昭和十八年に刊行された『東洋美術史研究』の再版で、奥付には五千部刊行とある。初版は前年だが、同じく濱田の『考古学研究』『日本美術史研究』もすでに上梓されている。濱田は東大在学中から岡倉天心たちが創刊した美術雑誌『国華』の編集に携わっていたので、美術史に関する論考も多く、濱田は生前にこれらの三冊を考古学、美術史の三部作として出版を計画していたとされる。『東洋美術史研究』の「凡例」の担当は京都帝大考古学教室の梅原末治に他ならず、それは濱田の遺著というべき三部作が、京都考古学教室と座右宝刊行会のコラボレーションによって刊行に至ったことを物語っている。
f:id:OdaMitsuo:20171222135526j:plain:h115(『東洋美術史研究』)

 さて>「断碑」において、その後の木村と熊田の関係はどうなったのだろうか。松本は書いている。「教室に自由に出入りしてもよい、と熊田総長は云ったが、どれも出来なくなった。一つは卓治の病み切った身体を皆が嫌い、一つは卓治の相わらずの傲慢な態度を憎まれたのである」。そして熊田による「教室の平和のため甚だ遺憾ながら今後の出入りは御遠慮下さるようお願い申上げ候」との手紙が届いた。それから卓治は病気が悪化、昭和十一年に同人たちだけに見守られ、三十四歳で亡くなったとある。

 熊田=濱田の死は昭和十三年で、京大総長在任中だったから、栄光に包まれて亡くなったといえよう。森本と濱田の死は、日本考古学創成期の明暗を象徴しているかのようだ。


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