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古本夜話744 中谷治宇二郎『考古学研究への旅』と『ドキュマン』

 前回の松本清張の「断碑」の主人公木村卓治=森本六爾は、「N」という「同じ年配の考古学者」のパリからの手紙をもらい、自分も「フランスに行って箔をつけたい」と思い、妻の実家の援助で、昭和六年にシベリア経由でフランスに向かう。

 木村のパリでの一年間の生活が「N」の手紙を引用して語られ、その「滞仏は空虚であった」ことが伝わってくる。この「N」だが、『日本石器時代提要』を書いているとされるので、彼は中谷治宇二郎だとわかる。昭和十八年に甲鳥書林から刊行の『校訂日本石器時代提要』が手元にあり、菊判五五二ページ、多くの図版、挿図も含めた大冊で、これもまた大東亜戦争下の専門書の一冊に他ならない。初版は昭和四年に岡書院から出され、甲鳥書林版はそれを京都帝大考古学教室の梅原末治が「増補改訂」し、「再刊序言」を寄せたものである。
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 梅原はそこで大正後半から昭和の初めにかけてが日本の考古学発達の大きな時期だと指摘し、「その学の開拓に与つた多くの人々の間にあつて、正規の学歴を持たぬ二人の若い学徒の存在が段々とその鮮かさを増して見えた」と述べている。いうまでもなく、その二人とは森本六爾と中谷治宇二郎であり、しかも「両君とも異郷に於いて不治の病を獲る」ことになり、「苦難の裡に共に短命な生涯を終ふるに至つた」ことも共通している。

 森本のことは松本清張が「断碑」で描いているが、中谷に関しては『校訂日本石器時代提要』の巻頭に、その写真とともに挙げられた「中谷治宇二郎君略歴」を要約してみる。明治三十五年石川県片山津に生まれ、小松中学校卒業後、大正九年に上京し、菊池寛門下に入り、新劇運動に参加する。同十三年東京帝大理学部人類学撰科生となり、松村瞭博士の下で先史学研究に従事し、『日本石器時代提要』などを刊行し、考古学会などで名声を博現する。「昭和四年渡欧し、パリで研学したが、病を得て、七年に帰朝し、十一年に療養地の湯布院温泉で死亡、享年三十五歳。

 その中谷のパリでの「研学」と松本が引用している手紙の出典が判明したのは、昭和六十年の中谷治宇二郎『考古学研究への旅』 (六興出版)の刊行によってである。同書に収録の追悼といえる「パリと森本君と私」で、これは昭和十一年に前回の『考古学』に自らの日記と思しき部分を含め、パリの森本を回想した一文である。松本はそれを「断碑」で、「森本」を「木村」に変え、若干の要約と脚色を施し、引用したとわかる。この事実から、松本が『考古学』の読者だったとも推測できる。
考古学研究への旅

 中谷の『考古学研究への旅』 の「パリ雑記」は、薩摩治郎八の寄付による大学都市の日本学生館=Foundation Satsumaの生活を描き、興味深いが、「研学」に関しては「象牙の塔」と「仏国人類学の会と人」にうかがうことができる。中谷はパリに着くとギメー博物館に赴き、新石器時代研究者の紹介を頼んだ。それから続いてトロカデロ土俗博物館のリベー館長、リビエール副館長を訪ねる。するとリベーは中谷にこの博物館、自らが主任教授である人類学実験所、彼の妹が事務を執っている人種学研究所という三つの研究所を開いてくれた。土俗博物館はペルーの土器の完全な研究をすることになった。そしてリベー教授が『ドキュマン』三号に「物質文化―土俗学・考古学・先史学の研究」を寄稿していることを知る。
 そうしているうちに、シルバン・レビイ教授からソルボンヌ大学のインド学研究室に来るようにとの手紙をもらい、訪ねていくと、中谷の論文を見たので、社会学のモース教授に会うようにとの話だった。当時のアルセル・モースを囲む状況について、中谷は語っている。

 デュルケムの実証社会学を受けついだモース教授が、例を求めて原始宗教の研究に没頭したのは既に以前からであったが、本年新たに記載科学としての土俗学並びに社会学の講義を人種学研究所で始めるというので、学界は相当のセンセーションを興していた。トロカデロの全館員は、その講義に列席するというので、リビエール氏は私を誘っていた。

 その最初の講義の後、シルバン・レビイの紹介でといって、モースに面会すると、「お前は中谷か、私はお前の名前を知っている」と老教授はいい、「強い掌を出した」。つまりそれはモースが中谷に対し、研究者としての強い親近感と信頼感を表わすものだったと目される。中谷のほうも「私は彼の講義に満足していた。何か自分の望んでいるものかはっきり思い起されるようであった。そうして土俗学を専ら勉強して帰る考えになっていた」のである。

 まだ「象牙の塔」の半分ほどで、「仏国人類学の会と人」に及んでいないけれど、前述したようなフランス人の碩学たちとの出会いやその内容がしたためられている。それを裏づけるのは『考古学研究への旅』所収の「中谷治宇二郎年譜」で、それによれば、日本考古学に関する論文をフランスの学会誌に発表し、パリ人類学会会員ともなり、日本考古学についての講演を行っているとある。ないものねだりとなってしまうけれど、それらも収録されていたらと思ったりした。

 ところがそれから四半世紀後に、思いかけずにその痕跡にふれたのである。それは酒井健『シュルレアリスム』 (中公新書、平成二十三年)においてで、そこには中谷が『ドキュマン』に寄せた「縄文土偶」の図版が掲載されていたのだ。それらは『校訂日本石器時代提要』にも収録の木菟土偶、陸奥式土偶だと思われる。おそらくそれを通じて、中谷の名前はフランス人研究者にも知られることになったのだろう。Documents を確認してみると、それがJiujiro Nakaya, Figurines néolithique du Japon (Vol 2, numéro1,1930)、すなわち「日本の新石器時代の小像」だとわかる。『ドキュマン』はジョルジョ・バタイユによって一九二九年に創刊されているから、中谷はバタイユとも会っていたのかもしれない。
 シュルレアリスム

 なお中谷が雪博士の中谷宇吉郎の弟であることも付記しておこう。また中谷を知ったのは岡茂雄の『本屋風情』 (中公文庫)においてで、その岡書院については拙稿「人類学専門書店・岡書院」(『書店の近代』所収)、甲鳥書林と中谷宇吉郎に関しては同「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究3』所収)を書いているので、よろしければ参照されたい。

本屋風情 書店の近代 古本探究3


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