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古本夜話745 東京人類学会編『日本民族』と東大人類学教室の選科生たち

 前回、中谷治宇二郎が東京帝大理学部人類学選科生で、前々回の雄山閣の「考古学講座」の松村瞭博士の下で先史学研究に従事していたことを挙げておいた。

 明治十七年に東大理学部生物科の学生だった坪井正五郎たちの呼びかけで、一ツ橋の植物学教室において人類学の会合が催され、これが東京人類学会の発祥となった。昭和十年に「東京人類学会創立五十年記念」として、同会編による『日本民族』が編まれ、岩波書店から刊行されている。手元にあるのは同十五年の第三刷で、おそらく前々回の雄山閣の「人類学・先史学講座」と同様に、こちらも版を重ねていて、支那事変以後も関心を集める研究分野であり続けていたのだろう。しかもそれが『日本民族』というタイトルで出されたのは時代を表象しているし、その「序」をしたためているのが松村なのである。

 東京人類学会の軌跡とパラレルに、『日本考古学辞典』(東京堂出版)によれば、講座としての東京大学人類学教室の名称が正式に用いられるようになったのは明治二十六年だった。それは坪井が英国留学から帰朝し、理科大教授に就任してからで、当初は広範な人類学研究が目論まれたけれど、日本の先史時代の民族、生活、遺跡、遺物の研究に力が注がれたとされる。そこに小学校中退の独学者の鳥居龍蔵が標本整理係として入り、坪井に師事し、まさに人類学教室を、後のアジア考古学と民族学の揺籃と地としたのである。また鳥居はアカデミズム内においても、助手、講師、助教授、文学博士となり、彼は本連載で続けて言及してきた、やはり独学者の森本六爾たちのアイコンと化していたと思われる。

 しかしその間、大正二年に坪井がペテルブルグで客死するという、日本の人類学界にとっての大事件が起き、その後継者は鳥居とされたが、対人関係で問題が起きて、同十三年に小学校中退の助教授は東京帝大を去ることになる。この事情は本連載743で、雄山閣の長坂金雄がもらしていた東大人類学教室における鳥居と松村の犬猿の仲のような対立などに起因している。これは鳥居が『ある老学徒の手記』(岩波文庫)で述べている、松村の学位請求論文をめぐっての問題によるものだ。松村が編者と見ていい先の『日本民族』に、鳥居の寄稿がないことも、その一端を告げている。
ある老学徒の手記

 ただそれはさておき、この東大人類学教室が果たした役割はアカデミズム内にとどまらず、坪井を始めとして主要メンバーが旧幕臣であったことから、本連載418などでふれているように、集古会や出版の世界にも影響を及ぼしていたことを指摘しておかなければならない。とりわけ岡茂雄は大正九年に東大人類学教室に出入りし始め、人類学や民俗学のための岡書院を設立し、本連載37の南方熊楠『南方随筆』 などの出版を始めるに至る。それは森本の『川柳村将軍塚の研究』にも及んでいる。
f:id:OdaMitsuo:20180109142259j:plain:h120(沖積舎復刻版)

 それからさらに特筆すべきはこの東大人類学教室が選科生を中心にして営まれていたことである。寺田和夫は『日本の人類学』(思索社、昭和五十年、後に角川文庫)において、選科生とは専門の分野だけを学ぶことができるけれど、卒業後に学士号はもらえないものだとし、その最初の選科生が明治三十三年の松村瞭だったと述べ、それ以後の人々を挙げている。
日本の人類学 日本の人類学 (角川文庫)

人類学を専攻しようとする若い人たちがぼつぼつ出てきた。東大人類学教室の選科生として、明治三三年の松村のあと、大正四年に小田原健児、六年に川村(小松)真一、八年には山内清男、一〇年には八幡一郎、宮坂光次、一一年には甲野勇、一三年に中谷治宇治郎、一四年に宮内悦蔵。ついでながらこのあと昭和一三年の和島誠一までは選科生はいなかった。正規の学生をとるまで合計一〇名、ほとんどの人が一家をなす学者となったが、八幡を除いて今はみな故人となった。

 本連載743の長坂金雄の『雄山閣と共に』に挙げられた「考古学講座」の寄稿者たちをもう一度見てみると、「松村瞭博士の一派」も執筆を断わって来たとの言が見えているが、それでも八幡一郎、甲野勇、宮坂光次は名を連ねている。鳥居と松村は登場していないことからすれば、二人の代わりに東大人類学教室を代表して三人の選科生たちが執筆したと判断できるし、当時の選科生の実力をうかがわせている。

 彼らに加えて、後にこれも民族学で「一家をなす学者」となる岡正雄や古野清人も、文学部の学生だったけれど、人類学の講義に出て、選科生たちと知り合いになっていた。それもあって、寺田によれば、昭和初期に両者が集り、人文研究会を発足させた。そこには森本や中谷の名前もある。そしてそれが母体となって、昭和十二年にエイプ会(英語では類人猿だが、人類学(アンスロポロジー)、先史学(プレヒストリー)、民族学(エスノロジー)の頭文字を組み合わせたもの)が組織され、月例会が開かれるようになったという。また昭和七年に岡書院によって、人類学や民族学の「囲炉裏ばたのような役割を持たせた雑誌」である『ドルメン』も創刊され、広く好評を得るに及んでいた。

 しかし昭和十一年の松村の死後、その後任として東大人類学教室に東北大学医学部解剖学教授の長谷部言人が赴任し、理学部に人類学科を創設し、専門家を養成する方向へと向かう。それもあって、長谷部は選科生と他学部生の集まりであるエイプ会を面白く思わず、それまで四回開かれていた東京人類学会と日本民族学会の連合大会も、昭和十四年を最後に中断されてしまったという。それが図らずも、東京人類学会と東大人類学教室の明治から昭和戦前にかけての歩みだったといえよう。

 なおその後、坪井正五郎に関しては『うしのよだれ』(山口昌男監修「知の自由人叢書」、国書刊行会)が編まれ、川村伸秀の『坪井正五郎』(晶文社)も刊行に至っている。
うしのよだれ 坪井正五郎


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