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古本夜話761 斎藤瀏『獄中の記』と『東京堂月報』

 前回、保田与重郎の『戴冠詩人の御一人者』が昭和十三年に東京堂から刊行されていることを既述しておいた。

 それを探していた際に、同じく東京堂刊行の斎藤瀏『獄中の記』『防人の歌』が出てきた。前者は昭和十五年十二月発行、十六年五月四十九刷とあり、当時のベストセラーだったことがわかる。後者は十七年の出版で、巻末にはもう一冊、『歌集四天雲晴』が見え、斎藤が東京堂から続けて三冊出していたことになる。彼に関しては、それらの著書も挙げられている『日本近代文学大事典』の立項を引いてみる。
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 斎藤瀏 さいとうりゅう 明治一二・四・一六~昭和二八・七・五(1879~1953)歌人。長野県北安曇軍七貫村の生れ。旧姓三宅。陸大卒。軍人となる。昭和三年済南事件に旅団長として革命軍と交戦した咎で待命となる。二・二六事件に叛乱幇助で入獄、一三年仮出獄後は待望の戦争中ゆえ軍国主義のイデオローグとして言論界に活躍した。獄中の心境をつづった随筆『獄中の記』(昭和一五・一二 東京堂)がある。作歌は日露従軍中にはじめ、佐佐木信綱に師事して、「心の花」同人だったが、一五年「短歌人」を主宰、歌風は粗大な武人的感慨であった。代表歌集に『四天雲晴』(昭和緒一七・五 東京堂)などがある。史は娘。

 『獄中の記』には昭和十一年の渋谷の衛戌刑務所拘置から豊多摩刑務所を経て、十三年の出獄までの生活が、多くの短歌をまじえて綴られている。そこには立項に見える済南事件や二・二六事件への言及もあり、斎藤が軍人にして歌人だった特異な立ち位置がうかがえるし、それが二・二六事件への対応と連関しているように察せられる。そこから二・二六事件の「歌人将軍」なる呼称が付されたと思われるが、それよりも私が注視したのは、番外ともいえる「追憶篇」に収められた「軍事探偵挿話」である。これはシベリア出兵前のことで、斎藤は満州駐在中に対ロシア作戦計画実施に当たって、軍事探偵として三菱物産の豆売商人に変装し、ロシア軍が駐屯する南松花江の河川、鉄橋、兵力、警備状況などを探る旅に出て、その体験を回想したものである。当時の商事会社員に扮する軍事探偵とその実態、それに絡む中国人、ロシア兵、日本人も登場し、獄中記以上にとても興味深い一編を形成している。

 ところでこの斎藤と東京堂の関係だが、『東京堂の八十五年』を繰ってみると、支那事変以後の昭和十三年から出版界で、ベストセラーが続出したことにふれている。その中で東京堂も「この時期に話題をよむ二冊のベストセラーを出版した」とし、ポール・ブールジェ、広瀬哲士訳『死』『獄中の記』が挙げられ、両者とも短期間に二十万部に達したとされる。また『獄中の記』も書影が掲載され、出版経緯も次のように述べられていた。

東京堂の八十五年  f:id:OdaMitsuo:20180213151634j:plain:h112

 斎藤は(中略)二・二六事件の時、青年将校に同情して罪を負い、獄に投ぜられた。出版後、たまたま「東京堂月報」の昭和十五年一月号に随筆を依頼したところ、獄中における歌日記ともいうべき「獄中記」を書いてくれた。獄中の読書生活をつづったものだが、見方、感じ方に、同感をよぶものがあった。
 「これはいける!」この調子で一冊の本を書いてくれれば、必ず売れる、と考えて、早速依頼することにした。
 著者は快諾して、すぐ執筆にかかり、数ヵ月後に原稿が完成した。書名は「獄中記」では余韻がないので『獄中の記』とすることにした。

 『獄中の記』はB6判並製の三二〇ページ、表紙には斎藤の自筆の獄中の食器スケッチをあしらい、出版され、一年足らずで二十万部近くに達したという。ここでその発端となった『東京堂月報』にもふれておくべきだろう。これは出版と読書をめぐる重要なメディアと考えられるけれど、取次の雑誌と見なされ、『日本近代文学大事典』でも立項されていないからだ。

 東京堂は明治二十三年に博文館の出版物をメインとする書店として始まり、翌年に取次も兼ね、大正時代には四大取次の筆頭を占めるようになり、まさに東京堂の歩みこそは日本の書店と取次の歴史を象徴するものだった。そうした中で東京堂は書店として雑誌だけでなく、書籍の販売を強化するために、大正三年に『新刊図書雑誌月報』を創刊する。それは新刊図書目録を主体としていたが、次第に刊行図書の著者名、出版社、定価などに加え、内容説明も掲載し、さらに出版界消息、新刊批評、読者の声、出版広告といった記事も広範に収録されるに至り、大正十五年には『東京堂月報』と改題される。

『東京堂月報』はすでに書店から取次の機関誌としての役割も有していたけれど、それを機として、昭和二年から取次としての東京堂は、全国各地書店用リーフレットである『新刊案内』を発行する。それに合わせ『東京堂月報』は「読書人の雑誌」というサブタイトルが付され、大正を一般読書人とし、巻頭記事を充実させ、新館案内、随筆、書評を掲載し、多くの読者を獲得していったのである。そうした意味において、書評誌の先駆けといっていいし、そこに斎藤の随筆が寄せられたことで、『獄中の記』の出版となり、ベストセラー化したのも、『東京堂月報』のアクチュアリティによるものと考えられる。だが斎藤に随筆を依頼した編集者は誰だったのだろうか。

 しかしこの『東京堂月報』も、『獄中の記』刊行の翌年の昭和十六年に、国策取次の日配の発足とともに廃刊となり、書評雑誌『読書人』と改められた。これは戦時下の十九年に休刊を余儀なくされたが、戦後を迎え、昭和三十三年に書協の『週刊読書人』へと継承されていったのである。


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