出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話766 吉田絃二郎『おくのほそ道の記』と梅本育子『時雨のあと』

 前回は『実業之日本社七十年史』、里見弴の名前だけで、書名が記されていなかった小説『愛と智と』を取り上げたが、実はそれなりに売れ、好評だったにもかかわらず、著者名も書名も挙げられていない一冊がある。
 f:id:OdaMitsuo:20180217175200j:plain:h120  f:id:OdaMitsuo:20180218105616j:plain:h120

 それは吉田絃二郎の『おくのほそ道の記』で、タイトルが示すように、芭蕉の『奥の細道』をめぐる随想と注釈、それに芭蕉の死を描いた短編「秋」を織りこんだ著作で、装幀は恩地孝四郎、芭蕉の口絵は田中咄哉州によっている。B6判函入、著者と作品ごとに異なる装幀は、実業之日本社だけでなく、この時代の多くの文芸書出版のフォーマットを占めていたように思われる。
f:id:OdaMitsuo:20180226104638j:plain:h115 奥の細道

 そうしたことも影響してか、奥付を見ると、昭和十五年発行、十七年十九版とあり、順調に版を重ねているロングセラーとわかる。それなのにどうして『実業之日本社七十年史』に著者名も書名も挙げられていなかったのだろうか。その理由のひとつとして、『同史』の刊行が昭和四十二年であり、吉田は昭和三十一年に亡くなっていて、すでにこの時代に著者の吉田が忘れられた存在と化していたことに求められるような気がする。

 だが吉田は大正から昭和にかけての流行作家で、自然と人生に関する感傷的憧憬と悲哀が、そのセンチメンタルな文体に投影され、多くの愛読者を有していたのである。それは昭和円本時代に新潮社から『吉田絃二郎全集』全十六巻が刊行されていることにも明らかであろう。手元に均一台から拾ってきた裸本の五冊ほどを見てみると、第一巻から六巻までが短篇小説集、第七巻から九巻が長篇小説集、第十巻が戯曲集、第十一巻から十五巻が感想集、第十六巻が童話集という構成だとわかるし、その多作ぶりを伝えている。

 しかも昭和九年には同じくその第二版としての全十八巻、十年には『吉田絃二郎感想選集』全十巻、十二年には改造社から『吉田絃二郎選集』全八巻が刊行されていることからすれば、吉田が昭和戦前を代表する人気作家だったことになるし、『おくのほそ道の記』のロングセラー化も了解できることになる。
吉田絃二郎全集 (『吉田絃二郎全集』)f:id:OdaMitsuo:20180301153521j:plain:h120

 しかしそのような吉田の生活や個人史に関しては、東京世田谷の玉川に隠棲し、武蔵野の自然に親しみ、各地への旅を続ける一方で、昭和十二年には妻と死別し、その後孤独と病苦の中で晩年を送り、病没したとされていた。その吉田の晩年をテーマとする作品が梅本育子によって書かれ、『時雨のあと』(講談社、昭和四十五年)として刊行され、知られざる生活が明らかになったのである。『時雨のあと』は丹羽文雄が主宰の同人誌『文学者』に連載されたことから、丹羽自身がその帯文を寄せていて、それが当時の吉田とこの作品についての代表的な感慨となっているので、全文を引用してみる。
f:id:OdaMitsuo:20180226104240j:plain:h120

 吉田絃二郎の名はなつかしい。少年時代の感傷をこのひとの本によってどれだけかきたてられたか知れない。そのくせ吉田絃二郎の個人については、何も知らなかった。だれにもわからなかった。その吉田絃二郎がこの本によって初めて白日のもとに全姿をあらわすことになった。「文学者」連載中評判になったのも私とおなじ気持のひとが多かったせいであろう。著者は吉田絃二郎を知っていた。信頼性は十分である。女中を通じての語り方も、この作者の身についている。

 ここで丹羽が述べているように、『時雨のあと』は山形県寒河江の紫橋部落から上京してきた十五歳の女中のおはるによって語られていく。玉川での寡夫の吉田家の日常仕事は二人の女中によって担われている。おはるは三畳の女中小屋で朝の五時に起き、庭掃除と朝食をすまし、「だんなさま」=吉田は八時頃起きる。すると二人の女中は座敷の雨戸をあけ、吉田の食事の後、光るように家の掃除をする。それから吉田はタクシーを呼んで外出し、三越と丸善で買物をしたり、精養軒で食事をする生活で、家での犬と女中相手の暮らしとは対照的だった。
 その時代設定は昭和十五年と推定されるので、ちょうど『おくのほそ道の記』が刊行された年であり、そのことはまったく言及されていないけれど、仏前には「だんなさまが書いた本が積みあげてあった」との記述は、同書をさしているのかもしれない。しかし昭和十六年になると、吉田のそのような日常生活は戦時下の進行とともに成立しなくなり、犬に与える肉も買えなくなった。

 その一方で、吉田はお春を召使いとして連れ、沓掛の山荘で暮らすことを宣言する。吉田は五十代半ば、おはるは十七歳だったが、これが吉田の若い女中に対する常套手段だったようなのだ。そして吉田はいう。「男と女が、こういう関係になると、人の目をかくすことはむずかしいのです。それをかくすのです。わたしがきびしく見ています。常に、身分の高い主人に召しつかえるようにふるまうのです。それが守れたら、ごほうびをあげますよ」。
 
 ここに白樺派からつながっている「身分の高い主人」と女中との典型的な関係が露出しているし、それは文学のみならず、近代日本の様々な社会の男女のストーリーだったと見なすこともできるだろう。そしてそれは左翼の場合はハウスキーパー、京都学派にしてみれば、祇園の存在ということになるはずだ。そのような構図は、かたちは変わっても現在でも延命していよう。

 ただ『時雨のあと』の場合、吉田は老齢と病気ゆえにおはるなしでは生活していけず、全財産を彼女に残し、死んでいくのである。著者の梅本は詩人で時代小説なども書いているだが、吉田と子供の頃から面識があったこと、『時雨のあと』は吉田家、つまりおはるから拝借した吉田の『時雨日記』によっていることが「あとがき」に述べられている。それは毛筆で丁寧に書かれた吉田の日記だと記されている。その後も梅本は続編を書いているようだが、まだ読むに至っていない。

 続 時雨のあと


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら