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古本夜話772 本間久雄『エレン・ケイ思想の真髄』と原田実

 ここで本連載763の本間久雄と大同館に関する補遺を何編か、はさんでおきたい。それは本間が大正十年に大同館から刊行した増補版『エレン・ケイ思想の真髄』も入手しているからだ。

 保田与重郎との関係を調べるために、『日本近代文学大事典』における本間の立項を確認すると、彼は明治十九年山形県米沢市生まれ、米沢中学を経て、坪内逍遥に傾倒し、早大英文科に進み、四十二年卒業後、『早稲田文学』同人となり、自然主義系の新進評論家として活躍すると始められていた。ただそこには自然主義に触発された懐疑と懊悩、世界の終末観がつきまとい、新しい生活への憧憬を求めようとする気配もあり、それがエレン・ケイによって導き出されていったとされる。大正元年に丸善で洋書の新刊の中から、エレン・ケイの『婦人の道徳』を見出したことがきっかけで、それを次のように回想している。

 エレン=ケイが北欧のすぐれた女流思想家だということは知ってはいましたが、目のあたりその著作を見たのは初めてですね。とにかくそれを買ってきて読んでみましたが、その純情な気持ち、詩情あふれる文章、その中に人生に光を求めていくという気持ち、そういうものに私は非常な魅力を覚えたのです。それから、たとえば論文集『ヤンガー・ジェネレーション』とか、『恋愛と道徳』とか『婦人運動』などのケイの著書を読みあさったのですよ。それが私の人生観上の転換期になっていますね。

 これが『エレン・ケイ思想の真髄』という彼女に関する啓蒙的紹介の書として結実していったのだろう。先の本間の回想の出典は不明だが、同書ではないことを記しておこう。

 この一冊の構成を示せば、第一篇がエレンの簡略なポートレートと思想が提出され、第二篇から四篇はその恋愛、結婚、母権観の要約で、彼女の『恋愛と結婚』と『母権の復興』の抄訳、第五篇のその生い立ちはハミルトン夫人の『エレン・ケイ』によるものとされ、第六篇が「社会改良家としてのエレン・ケイの思想」となっている。本間はこの編著の成立について、「学友原田実氏の助力を受けたところが頗る多い」し、第五篇は原田の筆になるとの謝辞が記されている。

 初版への増補分は定かでないけれど、構成から考えても、第六篇が加筆増補されたと見なせよう。エレン・ケイをめぐって、この初版と増補版の間に発生していたのは彼女の主著の翻訳刊行であり、それは同様に『日本近代文学大事典』に見える原田の立項にも明らかである。彼は本間の早大英文科の後輩で、大正期から自由主義な教育評論を書き、教育学を講じ、エレンの『児童の世紀』(大同館、大正五年)と『恋愛と結婚』(天佑社、同九年)を翻訳刊行していたのである。前者は『エレン・ケイ思想の真髄』の巻末に「世界的名著全訳成る」として一ページ広告が掲載され、「仏のルツソーの『エミール』に次ぐ大名著」にして、「エレンケイ女史の名は今や全く世界的である」とのキャッチコピーで。「好評激甚」第五版が謳われている。それに合わせ、『恋愛と結婚』も翻訳され、本間の著書も増補重版されたことになろう。

 また本間のほうも、新著『現代の思潮及文学』を上梓していて、そこにはウィリアム・モリスの「民象芸術論」が見える。それとその後の著作から推測されるのは、本間の場合、エレン・ケイを足がかりにして、モリスの生活の芸術観、芸術の生活化へと向かった。そして昭和三年に英国留学を経ることで、オスカー・ワイルドやウォルター・ペーターの影響を受け、『英国近世唯美主義の研究』の上梓へと至ったのであろう。これも読んでみたいとは思うが、『東京堂の八十五年』の記すところではタイトルと内容ゆえか、「絢爛にして高雅なもの、装幀界空前の美本」で、「番号入り五百部限定版だったため、戦後の古本界で驚くべき高価をよんでいるが、手に入れ難い」という。その書影を見ると、確かにその美本ぶりがうかがえるが、これまで一度も目にしていない。現在の古書価を確認してみると、やはり高価である。それでもいずれ出会い、読むことができるだろうか。
東京堂の八十五年 (『東京堂の八十五年』)

ところで本間のほうはさらに明治文学研究へとシフトしていったのだけれど、原田のほうはエレン・ケイをベースにして教育学や結婚論の道をたどり、昭和五年には新しい結婚制度を論じたリンゼイの『友愛結婚』を翻訳している。これは中央公論社から刊行され、手元にあるのは二十版を数え、この時代にはエレン・ケイの『恋愛と結婚』からリンゼイの『友愛結婚』へと至る新しい結婚のイメージが探求され続けていたと考えていいだろう。
f:id:OdaMitsuo:20180315224808j:plain:h120(『友愛結婚』、中央公論社版)

それを受けてなのか、同じく昭和五年には原田訳のエレン・ケイ『恋愛と結婚』が岩波文庫化されているし、同じく『児童の世紀』も十三年に冨山房百科文庫に収録され、大正から昭和戦前にかけて、結婚と児童に関する思想のヒロインとして、エレン・ケイの時代を伝えているようだ。
f:id:OdaMitsuo:20180317102917j:plain:h120(『恋愛と結婚』)

しかし現在では新訳の『児童の世紀』(小野寺信、百合子訳、冨山房百科文庫)として残されているが、もはや人名事典などに立項が見えず、リンゼイとともに忘れられてしまったといえるかもしれない。

児童の世紀


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