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古本夜話778 コーリアット『変態心理』と大日本文明協会

 前回の北野博美『変態性欲講義』の参考文献として、大日本文明協会から翻訳刊行されたクラフト・エビングの『変態性欲心理』を挙げ、北野の著書もそれをベースにしていることを既述しておいた。
変態性欲心理 (ゆまに書房復刻版)

 その大日本文明協会の「大日本文明協会叢書」に関しては、「市島春城と出版事業」(『古本探究』所収)で言及しているが、その一冊として、イサドール・エッチ・コーリアットの『変態心理』が出されている。刊行は大正十年であり、『変態性欲講義』の出版とほぼ同年なので、参考文献に挙げられていない。しかし雑誌だけでなく、このような翻訳も刊行されていることからすれば、確かに「変態性欲」や「変態心理」は大正時代のひとつの流行語であったと見なしていいだろう。
古本探究

 それは著者の「原序」によれば、「変態心理学即ち諸々の変態精神現象の研究は近年発達史たる科学的医学の一つ」で、この四半世紀を通じて欧米で研究が進められてきたとされる。原書のタイトルはまさにAbnormal Psychologyで、コーリアットはアメリカのボストン病院神経病科に勤務しているという。

 「心理学界に於ては今日変態心理の研究はいよいよ重大且つ必須」と始まる「序」を寄せた早稲田大学教授金子馬治に続いて、この翻訳に関して、大日本文明協会は「例言」の中で、次のように述べている。

 日本の学術界にも此方面の研究が次第に頭を抬げかけ、現に『変態心理』といふ月刊雑誌等もあつ(ママ)、熱心に斯学の考究が試みられてゐる今日、本原書を訳述し刊行するに至つたことは本協会の此上ない満足とする所である。

 つまり最も時宜を得た翻訳出版だと自讃していることになる。訳者は文学博士佐藤亀太郎と明記されているけれど、この人物のプロフィルなどの紹介はない。

 この『変態心理』の内容は二篇に分かれ、第一篇は潜在意識の現象を論じ、自動書記や透明凝視(これは透明な球体の凝視のこと)を通じての実験、感情の試験と分解、睡眠と夢、睡眠と精神生活の分解という構成で、潜在意識を客観的に分析する方法に及んでいる。第二篇は潜在意識がもたらす精神状態に起因する機能障礙、諸疾病の研究で、記憶脱失とその回復、記憶錯誤、人格分裂、ヒステリー、無根恐怖症、神経衰弱、精神癇癪発作、神経機能症などが論じられている。

 ここに外国の新しい分野の研究が紹介されるに当っての翻訳と解釈の混乱を見てしまう。そしてそれがAbnormal を「変態」と訳したことに端を発し、中村古峡の『変態心理』が田中香涯の『変態性欲』と併走し、本連載15の「変態十二支」や「変態文献叢書」の企画出版へとリンクしていったことは明白である。またそれの頭文字に起因する「H」の語源となったことも。

 それらをあらためて確認するために、平凡社の『大百科事典』(昭和八年)や『大辞典』(同十一年)を引いてみた。すると「変態心理」「変態心理学」は通常の精神現象と著しく異なる病的、もしくは変則の精神現象で、それを研究するのが精神病理学、「変態性欲」は異常な行為により性欲を遂げようとする傾向という定義が当てられている。

 つまり「変態」とは英語が文字どおり示すところの「異常」に他ならず、それが「変態」と訳されたことによって、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの時代と共鳴、連鎖し、これも出版史でいえば、本連載31の『近代犯罪科学全集』や『性科学全集』、同32の『現代猟奇尖端図鑑』や『世界猟奇全集』として企画編集されていったことになろう。
世界猟奇全集 (『世界猟奇全集』)

 それは先の事典や辞典が示すところによれば、昭和十年代まで延命し、次代を表象するコードともなっていたと思われる。その後の支那事変から大東亜戦争の進行につれ、そのような「変態」といったタームがどのような回路をたどっていったのかを確かめられないにしても、それが「異常」へと転換、移行するのは戦後を待ってのことだったと思われる。そのことを表象するのは昭和二十九年になって、みすず書房から刊行され始めた「異常心理学講座」全八巻であり、それは同四十一年に増補され、全十巻として再刊されている。そうした精神医学界の動向によって、「変態」というタームはその終焉へと向かったと思われる。しかし五〇年代になって、みすず書房からも、この「異常」ももはや時代にそぐわず、変えるべき必要があるとの言を聞いてもいる。

 この『変態心理』は「大日本文明協会叢書」の大正九年から十年にかけての十二冊の第五期の刊行に当たる四六判である。巻末広告を見てみると、本連載772のエレン・ケイ、本間久雄訳『戦争平和及将来』があり、寺田精一編著『科学と犯罪』も掲載されている。後者は翻訳ではないので、「大日本文明協会叢書」に連なるのか不明だけれど、寺田は前々回の日本変態心理学会=日本精神医学会の『犯罪心理講義』『惑溺と禁欲』の著者である。これらの二著には文学博士、犯罪心理学の権威と記されているだけだが、『科学と犯罪』には警察講習所講師が付されていることからすれば、「変態」なるタームも出版界だけでなく、警察や犯罪と密接なる関係をもって流通していたことを、あらためて教えてくれるのである。


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