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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話786 岸田国士『力としての文化』

 大東亜戦争下における出版の謎に関して、本連載でもずっとふれてきているし、前回の河出書房の例を挙げたばかりだが、そのことを考えるに当たって、恰好の一冊があるので、ここで取り上げてみたい。

 それは岸田国士の『力としての文化』で、「若き人々へ」とのサブタイトルが付され、昭和十八年六月に、やはり河出書房から刊行されている。表紙は全体が鮮やかな黄色で、それだけ見れば、戦時下の一冊とは思われないけれど、それとは対照的に用紙はザラ紙といっていいし、戦争末期の印刷用紙状況が伝わってくる。この装幀も青山二郎によるものである。本連載782の島木健作|『生活の探求』、同763、764の保田与重郎の著作も青山の手になることからすれば、青山の装幀の仕事は小林秀雄の周辺ばかりでなく、想像以上に広範な拡がりを有していたと考えるしかない。所謂「青山学院」人脈はその装幀を通じて、深く根を下ろしていたことを示していよう。
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 さてこの岸田のほうだが、彼が大政翼賛会の文化部長に就任したことは、本連載618の杉森久英『大政翼賛会前後』にも書かれている。また『日本近代文学大事典』の立項においても、「昭和十五年、よき政治にはよき文化の支えがなければならぬという信念の下に」文化部長に就任し、それを唱えた在任中の諸講演集として『力としての文化』があると述べられている。
大政翼賛会前後(ちくま文庫)

 ここで大政翼賛会に関してラフスケッチしておく。それはこれまでもふれてきたけれど、昭和十五年に発足した官製国民統合組織で、岸田も挙げているように「大政翼賛の臣道実践」を標語として、経済新体制をめざす統制会、勤労新体制の大日本産業報国会とともに、高度国防国家建設のための主たる政治体制の具現とされた。そのうちの文化部については岸田自身に語らせよう。彼はまず組織変えにふれ、文化部は組織局に属していたが、組織局が実践局と変わり、そこに新たに厚生部が設けられ、従来の文化部の仕事の一部が移され、さらに錬成局に思想部ができ、文化部から「思想」に関するころはこちらに移管されたと述べ、次のように続けている。

 さうすると、文化部には何が残るかと云へば、学術、文芸、芸術、それに、さういふ部門を包含する出版、放送といふやうな事業職域関係、図書館、博物館などの文化機関、それと国民生活の文化面、教養、娯楽、風俗、習慣といふやうな方面の問題だけといふことになるわけです。これでもなほ広汎と云へば広汎でありますが、「文化」と「思想」とは入り離すことができないものであり、また「厚生」とは国民生活を豊かに健全ならしむる万策でありますからこれまた、「文化」という角度からこれを取扱はなければ、綜合的な効果は挙げられないのであります。(中略)かういふ風に、「文化部」の仕事を見て行くべきだと思ひます。

 このような大政翼賛会文化部を背景にして、岸田が『力としての文化』で伝えようとする主張を簡略に紹介してみる。日本には個人主義、物質主義の西洋と異なる固有の文化があり、そこには肇国以来の君民一体の国家としての大理想が投影されている。それゆえに国民のすべては全人格、全生活をあげて、この大理想に邁進すべきだし、そこには個々の生活を超越する八紘一宇の生活の理想がある。日本の文化はこの精神に基づく全国民の信念と情熱と叡智から成立し、それを「若き人々へ」へと継承していかなければならない。
 
 結局のところ、『力としての文化』の一冊は、このような論を様々なヴァリエーションで繰り返したもので、劇作家としての岸田のドラマツルギーの美学と緊張感は伝わってこないし、時代が変われば、日本文化に関する戦時下のご託宣集と化してしまうだろうし、実際にそのようにしか読めない。

 しかし問題なのは、大政翼賛会文化部が出版や放送、図書館や博物館などに加えて、「国民生活の文化面、教養、娯楽、風俗、習慣」などに及ぼした影響である。それは後に『暮しの手帖』を創刊する花森安治の仕事などが伝えられているが、それらの全体像は明らかになっておらず、総合的な研究も見るに至っていない。同じような文化機能を有する団体として、岸田は出版文化協会、音楽文化協会、小国民文化協会、宣伝文化協会を挙げているけれども、これらも大政翼賛会と同様だといっていい。ここにも戦争と出版に絡む謎が秘められているのである。

 またこの『力としての文化』の初版発行が三万部であるという奥付の事実も伝えておくべきだろう。昭和十八年に国策取次の日配はすでに買切制を導入していたことを考えれば、定価二円二十銭であるから、版元の河出書房にとって、正味で五万円近い売上、著者の岸田には六千円ほどの印税をもたらしたと推測される。出版社にとっても、著者にとっても、この一冊は驚くほどの売上と収入をもたらしたことになろう。それだけでなく、大政翼賛会などから出版助成費すらも得ていることも考えられるし、大東亜戦争下の出版物はこのような出版経済と個人の金銭事情を抜きにして語ることはできないと思われる。


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