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古本夜話793 杉山英樹『バルザックの世界』

 前回のクルティウスの『バルザック論』は昭和十七年九月刊行だが、それに先行して、同年一月に中央公論社から杉山英樹の『バルザックの世界』が上梓されている。これはA5判並製で、『バルザック論』の装丁や造本に比べ、地味な一冊であるけれど、日本人による四八五ページに及ぶ初めての確固たるバルザック論と見なすことができる。ただ私の所持するのは昭和二十三年の再版なので、初版と装丁や造本が同じかどうかは確認していない。
f:id:OdaMitsuo:20180517110841j:plain:h115 (『バルザック論』)バルザックの世界

 著者の杉山に関してはもはや忘れられていようし、それでも『日本近代文学大事典』に立項を見出せるので、まずはそれを引いてみる。

 杉山英樹 すぎやまひでき 明治四四・一一・八~昭和二一・四(1911~1946)文芸評論家。栃木県足利郡の生れ。本名利一。機業を営む杉山順一の長男。足利中学を経て、昭和七年、文化学院を卒業。学院時代から労働運動に参加、七年に逮捕され入獄。そこで肺結核を患い、九年、仮死状態で仮出所した。職を転々としながら、一〇年ごろより「唯物論研究」「文学評論」「文学界」などに文芸評論を発表。一四年、大井広介に誘われ「槐」に参加。翌一五年一月、大井広介、平野謙らと「現代文学」を創刊、長編『バルザックの世界』を毎号連載して特異な評論家としての地位を確立する。以後「新潮」「文芸」「改造」などに時流に迎合することのない雄勁な作家論や文芸評論を発表した。(後略)

 私は『バルザックの世界』しか読んでいないけれど、この立項によって、杉山が『バルザック論』の訳者の野上巖と同様に、左翼運動家で唯物論研究会の関係者であり、第一次『バルザック全集』の入念な愛読者だったと確信する。そして『バルザックの世界』の「あとがき」を読むと、これが『現代文学』創刊号からの十四回の連載に、新たに三章を加えたもので、タイトルを決めてくれた大井広介、世話になった平野謙の他に、『バルザック全集』の訳者である前川堅市や水野亮への謝辞もしたためられている。訳者たちとの関係は『バルザック全集』を読むことを通じて生じたもののようにも思われる。
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 そのことに象徴されるように、さらに大東亜戦争下において、第二次『バルザック全集』の刊行に続き、同年に二冊の内外のバルザック論が刊行されたことは、そうした状況にもかかわらず、第一次『バルザック全集』によってもたらされたバルザックブームといったトレンドが生じていたのではないかとの観測も可能である。それだけでなく、この二冊には共通するバルザックへの注視があり、クルティウスにしても杉山にしても、それが前回言及した『バルザック全集』第十三巻『神秘の書』に向けられていることだろう。

 前回はふれられなかったが、クルティウスは『バルザック論』を一の「秘密」から始め、二の「魔術」へとつなげている。それはバルザックの幼年時代の「秘密」が『ルイ・ランベール』と『セラフィタ』に描かれることになった「秘教」であること、それは「魔術」に至って、単純に解釈すれば、とりわけスウェーデンボルグへと導かれ、そのコアが『神秘の書』として書かれたことにつながっていく。

 杉山のほうも、『バルザックの世界』の第一章「南方人の家系」において、バルザックの少年時代のスウェーデンボルグに関する読書体験に言及し、『セラフィタ』を引き、スウェーデンボルグのポートレートを提出する。そしてその「不思議な、神秘主義説に心を奪はれ」、「この科学者である神秘家」によって「『思索された天国』というものを知つた」と述べている。つまりクルティウスと杉山は『神秘の書』をアリアドネの糸とし、バルザックの世界の解読を始めていると考えていい。

 だが二人の『神秘の書』への傾倒は、戦後の寺田透の『バルザック』(現代思想社、昭和四十二年)などでは後退している。それは同書のサブタイトルが「人間喜劇の平土間から」とあるように、「人間喜劇」のうちの「哲学的研究」に属する『神秘の書』ではなく、「風俗研究」に属する『田舎医者』『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』などの「人間喜劇の平土間」へ、注視をシフトさせていることによっている。その延長線上に『人間喜劇の老嬢たち』(岩波新書)も書かれたと思われる。
バルザック f:id:OdaMitsuo:20180518112601j:plain:h110(『人間喜劇の老嬢たち』)

 これは寺田の同書を読んで知ったのだが、この「人間喜劇の平土間から」は万里閣から友人たちと協同でバルザックの未反訳作品を訳出してゆかうと計画した『人間叢書』の各作品」に寄せた解説の「総標題」として選んだものだという。前々回に挙げなかったけれど、昭和二十二年に、これもまた本連載729などの万里閣から「バルザック人間叢書」全十五巻が刊行されている。これは未見であるけれど、あらためて選集や全集が編まれた場合、その作品群は新たに読み直され、新たな相貌を提出されていくことを物語っていよう。いずれ万里閣版も入手し、そのラインナップを確かめてみようと思う。この万里閣版と河出書房版のトータルとして、東京創元社版が成立したとも考えられるからだ。
「バルザック人間叢書」 (「バルザック人間叢書」第7巻) バルザック全集 (東京創元社版)


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