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古本夜話801 吉江孤雁『緑雲』と如山堂

 これもまた毎度お馴染みのことになってしまうけれど、前回の『吉江喬松全集』に関する一文を書いてから、浜松の時代舎に出かけたところ、吉江孤雁の『緑雲』を見つけてしまったのである。これは吉江の前史としての孤雁名義ゆえに全集には収録されていないが、『日本近代文学大事典』の吉江の立項において、明治四十二年に如山堂から刊行された処女文集とされている。
吉江喬松全集 f:id:OdaMitsuo:20180617113401j:plain:h110(『緑雲』)

 この『緑雲』は裸本で、カバーや函の有無は不明だが、装丁はタイトルに見合った濃いグリーン、四六判上製、二五六ページの一冊である。同書には「杜」から始まる三十編ほどの作品が収録され、それらは短編、もしくは小品といっていいように思われる。これらの作品には同人誌『山比古』や下宿を同じくしていた水野葉舟の短篇や小品文との相似性を彷彿とさせる。私も水野の作品に関しては、「郊外と小品文」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)を書いている。

郊外の果てへの旅(『郊外の果てへの旅/混住社会論』)

 だがそれよりも明らかなのは国木田独歩の『武蔵野』、「牛肉や馬鈴薯」を収録した『独歩集』の影響で、「神」や「美」は自然の中にそのまま見出される。それは次のような「新緑」の中の一節にもうかがわれる「緑に萌える若草の芽、其若芽を付けた樹々の枝をば折つて見たまへ、其尖端からは緑の露が溢れ出るかと思はえる。流れずはやまじ、行かずば止まらじ、水よ、雲よ、森よ、吾生の姿は其処に彰はれてゐる」。
 

 「序文」を寄せているのは中澤臨川で、彼も松本中学の同窓で、独歩と交際し、彼が創刊し、孤雁が編集者だった雑誌『新古文林』にも寄稿していた。そこで中澤は「四十一年歳末」の「謹誌」として、数年前に孤雁の文集刊行計画があり、独歩と自分がその序文を書く約束をしていたが、出版が遅れてしまい、「独歩はゐなくなり、自分独りで筆をとるやうなと(ママ)なつた」と述べている。独歩が亡くなったのは同年の三月のことだった。

 なお独歩と孤雁の関係については後者の「独歩社は自由の国であつた」との言を引き、かつて「出版者としての国木田独歩」(『古本探究Ⅲ』所収)を書いているので、そちら参照されたい。また『緑雲』に挿画を寄せている小杉放庵=未醒も独歩社の社員であり、孤雁の処女文集が独歩社の人脈を継承するかたちで上梓されたとわかる。
古本探究3

 同書の巻末に版元の如山堂の刊行書として、白柳秀湖『黄昏』、二葉亭四迷『平凡』、田山花袋『村の人』といった小説に加え、「新詩」として与謝野晶子『舞姫』、「歴史及地理(紀行文)」として、小島烏水『山水美論』、「国語」として飯田秀治『業平全集』、「音楽」として『独唱名曲集』、「雑書」として篠山克己『雲井の雁』などの五十冊が一六ページにわたって掲載されている。それはこの発行者を今津隆治とする如山堂が明治末期に、それなりの文芸書出版社だったことを伝えている。
f:id:OdaMitsuo:20180618150645j:plain:h120(『舞姫』)

 この如山堂について、まとまった証言を残しているのはやはり小川菊松で、『出版興亡五十年』において、明治三十年代には春陽堂が「純然たる文学図書専門の出版書肆」だったが、そこに「文学書肆」として、金尾文淵堂、文録堂、如山堂、隆文館、さらに新潮社が加わり、春陽堂の地盤は荒らされるに至ったと述べている。そして如山堂への言及も続いていく。
 出版興亡五十年

 この文淵堂と前後して出版を初めた、如山堂今津隆治君も大の凝り屋で、美本組の一人である。(中略)魚河岸の大問屋今津源右衛門氏を本家とする、魚河岸育ちのチヤキゝゝゝの江戸つ児で、中々文才もあり、粋で通で趣味が豊かで、(中略)小林嵩山房で何年か修業し、如山堂の看板をあげたが、持つて生まれた趣味から、仲々凝つた本を作つた。しかしこれといつて残るほどのものはなく、文学趣味の小型のものをポツゝゝ出す程度であつたが、明治三十八、九年ごろ、小島烏水氏の「不二山」「山水美論」「富士山大観」等を矢継早に出して、著者を山岳研究の権威として世に押し出すと共に、大いに登山趣味を鼓舞した。(中略)その後は微々として振るわなかつたのは、粋と多芸が禍いして、儲ける片つ端からその金が遊びの方に流れて、肝腎な商売の方に資金化されなかつたからであらう。晩年は殆ど出版と縁を断ち、十数年前没せられたが、私には忘れ得ぬ人である。

 本連載225で、前川文栄閣と小島烏水『日本アルプス』を取り上げ、前川文栄閣が「美本組」の出版金融者だったという小川の証言を既述しておいた。これも小川によるのだが、この『日本アルプス』は前川文栄閣には「不似合な本」で、それは如山堂が手元不如意で金も借りられなかったことから、前川文栄閣に持ちこみ、出版されたという事情が絡んでいるようだ。

 また今津が「小林嵩山房で何年か修業」とあるが、これも本連載418で記しているように、八木奘三郎『日本考古学』の版元で、集古会や東大人類学教室の近傍にあった出版社ではないかとの推測を提出しておいた。小林慶を発行者とする小林嵩山房は江戸時代から二百年以上も続く版元で、その店名は荻生徂徠の命名とされ、徂徠に加え、頼山陽、伴蒿渓などの著作も出版していたとされる。神田錦町の五十稲荷の路地奥にささやかな書肆をかまえていたが、関東大震災後には消息がわからなくなったと小川は証言している。

 最後になってしまったけれど、『緑雲』はこれも小川のいうところの「文学趣味の小型のもの」の一冊だったのであろうか。


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