出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話807 金尾文淵堂と徳富健次郎・愛『日本から日本へ』

 吉江孤雁や国木田独歩の著書を出した如山堂や隆文館が、金尾文淵堂や文録堂と並んで、春陽堂以後の「美本組」だったという小川菊松の『出版興亡五十年』の証言を、本連載801で紹介しておいた。私は小川菊松のいうところの「美本組」出版社にはあまり関心がないというか、むしろ門外漢といっていいので、これまでそれらにはほとんどふれてこなかった。 それでもかつて一度だけ「金尾文淵堂について」(『古本探究Ⅲ』所収)を書いているが、それは「美本」とはいえない望月信享の『大乗起信論講述』をめぐってであった。

出版興亡五十年 古本探究3

  同書の著者の望月は、金尾文淵堂から刊行予定だった予約出版の『仏教大辞典』の編纂者だった。しかしこの辞典は刊行が送れ、資金ショートに至り、金尾文淵堂は明治四十一年に倒産してしまう。その後どのような事情と経緯ゆえか、再起した金尾文淵堂からこの一冊が大正十一年に出され、それは高橋輝次『古本が古本を呼ぶ』(青弓社)や石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』(新宿書房)の「金尾文淵堂刊行書目」にも掲載されていなかったからだ。

古本が古本を呼ぶ (『古本が古本を呼ぶ』) 金尾文淵堂をめぐる人びと

 だがその後、まったく偶然ながら、金尾文淵堂のとりわけ美本とはいえないけれど、よく知られた二冊を入手しているので、この機会にその『日本から日本へ』にふれておこう。ただ同書のことは私があらためて説明するよりも、石塚の著書から引くべきだろう。その第四章「原稿を求めて―徳富蘆花との二〇年」の中で書影入りの紹介がなされ、「『日本から日本へ』の完成と結末」という一節があり、そこに次のように描かれているからだ。

 そしていよいよ大正一〇年三月八日に、徳富健次郎・愛共著で、「東の巻」および「西の巻」の二部仕立て、通巻一四五四ページの本が完成する。A5判の天地左右を少し切った縦長の判型で、本文横組み、角背・紫の羽二重クロース装・箔押し、天金で小口と地は機械裁断ではなくアンカットふう、函入り、定価は各五円という豪華本だった。本文は六号活字で普通より小さく、行間は全角どり、余白がたっぷりとってあるので、文字は小さいが決して読みにくくはない。膨大な原稿量を収めるために金尾が考えた苦心の体裁である。随所に写真版、カラー木版も挿入されている。

f:id:OdaMitsuo:20180712142943j:plain:h115(西の巻)

 これを少しばかり補足すると、函は黄色で、そこに蘆花の自筆と思われる黒字のタイトルと著者名が記されているが、それ以外はまさにそのとおりである。

 蘆花夫妻は大正八年一月に、一年間にわたる世界一周の旅に出た。それは『日本から日本へ』の「東の巻」の冒頭に記されているように、前年の紀元節の天明として、五十一歳の徳富健次郎と四十五歳の妻あいが「卒然としてアダム・イヴの自覚に眼ざめた」こと、また四年に及んだ「対独世界戦が、ばったり止務だ」ことによっている。その旅は横浜港からの大阪商船会社のぼるねお丸による出立であり、そこにその貨船写真も見ることができるし、「ぼるねお丸」という一章も置かれている。

 船は長崎を過ぎ、支那、安南、馬来半島などを経て、印度洋に向かい、三月に坡西土に着き、そこで夫妻はぼるねお丸から降りる。そしてエジプト、エルサレム、ヨルダン、ナザレを経て、イタリアに入り、ローマやフィレンツェ、それからパリ、スイス、ドイツ、ベルギー、イギリスを訪れ、日本へと戻ったのは一年二ヶ月後の大正九年三月のことだった。その克明な記録が『日本から日本へ』の二巻、一四五四ページにつづられ、金尾文淵堂の金尾種次郎の手によって、送り出されたのである。

 その出版に至るエピソードは伊藤整の『日本文壇史』(講談社文庫)や中野好夫の『蘆花徳富健次郎』(筑摩書房)にも語られているように、『日本から日本へ』には記されていないけれど、金尾が神戸からぼるねお丸に乗り、門司まで同船して出版許可を得たとされる。しかしこの「手の込んだ造本」は時間がかかり、奥付では版を重ねているようによそおっているが、石塚は蘆花の書簡証言を引き、読売新聞の二万五千部出ているというのは金尾の吹聴で、「東の巻が地方七千余、東京三千八百」としている。確かに手元にある>「西の巻」は大正十年三月八日初版、四月二十日第二十版となっているが、定価五円は高すぎるし、蘆花の人気は明治三十年代が全盛だっただろう。夫妻の共著としての世界一周記は、読者にとってもポピュラーな人気を得るものではなかったと思われる。

日本文壇史 蘆花徳富健次郎(『蘆花徳富健次郎』)

 それに関して、石塚は「初版二万部だったが返品の山となりぞっき本として古本市場にはんらんした」という大谷晃一の言葉を引き、一年後の読売新聞に大特価三円五〇銭の広告が出されたことにも触れている。その最大の敗因として、蘆花の外遊資金の拠出、製作費や宣伝費への先行投資により、高定価をつけざるをえなかったことを挙げている。私もそれに同感であるし、昭和円本時代を前にして、二冊で十円は高定価だったと見なすしかない。

 なお蘆花に関しては本連載284で、金尾文淵堂と並んで言及されている福永書店との関係にふれ、また蘆花の『自然と人生』『みみずのたはこと』については、拙稿「東京が日々攻め寄せる」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)を書いていることを付記しておこう。

 郊外の果てへの旅

odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら