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古本夜話812 河盛好蔵と白水社『キュリー夫人伝』

 河盛好蔵の『河岸の古本屋』(毎日新聞社)所収の「著者略年譜」によれば、前回のヴァレリー『詩学叙説』の他に、昭和十三年にはジイド『コンゴ紀行』とエーヴ・キュリー『キュリー夫人伝』 を翻訳刊行している。後者は川口篤、杉捷夫、本田喜代治との共訳である。これは四六判並製、六四八ページの一冊で、昭和十年代のベストセラーとして知られ、戦後もロングセラーであり続けた伝記だといっていいだろう。
f:id:OdaMitsuo:20180806222352j:plain:h120 f:id:OdaMitsuo:20180807102902j:plain:h120 (白水社新装版)

 本連載773のエレン・ケイではないけれど、キュリー夫人も日本近代におけるヒロインの一人として、受容されたと見なせるし、それは奥付のすばらしい版の重ね方が証明していよう。ちなみにキュリー夫人の娘のエーヴによるこの伝記は、昭和十三年十月初版発行で、十二月には十七版に達し、翌年一月には二十五版を数えている。三センチを超える分厚い伝記の翻訳が、このように矢継ぎ早に版を重ねたのは異例であろうし、それはキュリー夫人が時代のアイコンと化していたことを伝えている。

 キュリー夫人はポーランド人で、貧しかったが、美しくて天分に恵まれ、パリへと研究の道に赴いた。そこで彼女のように天才といっていい一人の男ピエールに出会い、結婚した。二人は比類なき幸福にあったが、並々ならぬ努力も重ねた結果、ラジウムを発見するに至った。その発見はひとつの新しい科学や哲学を誕生させたばかりでなく、難病の治療法も人類にもたらした。それはまた二人の学者としての栄誉を世に広めたが、ピエールは死の手に奪い去られてしまった。だが彼女はその心の痛手と身体の不調にもめげず、夫妻によって創造された科学を発展させ、人類への不断の寄与に及んだ。それでいて、彼女は富を拒み、名誉にも関心を示さず、自分の使命を果たし、消えるが如く世を去ったとされる。

 エーヴはこのようなキュリー夫人の生涯を「神話にも似たこの物語」と見なし、修飾を一切加えることなく、「その汚れなき、水の流るる如く自然な、殆んど自らの驚く可き宿命を自覚しないかのやうな生涯」を描いたことになる。このようなキュリー夫人像は戦後になっても保たれ、日本の昭和三十年代に正確なタイトルは失念したが、おそらくエーヴの伝記を原作とするキュリー夫人を主人公とした外国ドラマがテレビ放映されていたのである。

 「後書」によれば、これは一九三七年(昭和十二年)にフランスの週刊新聞『マリアンヌ』に連載され、翌年にガリマール書店から刊行されると同時に、アメリカを始めとして翻訳され、ベストセラーとなっている。「いま、原著者より日本語への独占翻訳権を譲渡され、その邦訳を我が読書界に送り得ることは我々の欣快とするところである」との言はこの翻訳出版が、在仏の桑原武夫による翻訳権獲得にしても、共訳による短期間での完成にしても、実に用意周到なものであったこと、結果として満を持したベストセラーとして実現したことになろう。

 この「後書」は「訳者一同」となっているけれど、河盛好蔵が書いたのもので、実質的に彼がプロデューサーだったのである。訳者たちは東大と京大の仏文科出身者たちによるが、杉と桑原は京大で河盛と同窓だし、川口や本田は河盛と法政大学で同僚でもあったからだ。なお本田は仏文科ではなく、東大社会学科出身で、フランス社会学の草分けとされる。

 河盛は後に『フランス語盛衰記』において、自分が企画した『キュリー夫人伝』 は大ベストセラーになり、「我乍ら笑いがとまらぬほど売れに売れた」と述べ、「毎週三千枚を欠かさない検印紙に捺印するのはわが家では女房の仕事で、嘘のようだが、彼女のそのために手に平を腫らすという仕事であった」と告白している。そしていかにも河盛らしく、この大ベストセラーを「何よりも悦んだのは白水社で、この本のおかげで、たまっていた印税や原稿料を全部清算することができた」と付け加えている。
フランス語盛衰記

 このようなフランスにおける出版と日本での翻訳事情を背景とした『キュリー夫人伝』 は、河盛の証言からわかるように、版元の白水社にとっても特筆すべき出版であったし、それは白水社の社史とも重なっているので、まずその創業者を『出版人物事典』から引いておく。
出版人物事典

 [福岡易之助 ふくおか・やすのすけ]一八八五~一九三一(明治一八~昭和六)白水社創業者。秋田県生れ。東大仏文科卒後、一時帰郷したが上京、一九一五年(大正四)秋、白水社を創業。社名は「白水は崑崙の山に出で、これを飲めば死せずと。神泉なり。」との中国古書の言葉に由来するという。当初、『婦人』という雑誌を創刊した。二一年(大正一〇)、内藤濯ほか編の『模範仏和代大辞典』を心血を注いで完成、日本における仏文学の進歩に画期的貢献をしたものといわれた。関東大震災で資産を失ったが、翌年、神田錦町に新社屋を建設して再出発、『標音仏和辞典』『仏蘭西文学訳注叢書』をはじめ、多くの事典、単行本を出版した。二一年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章が贈られた。

 ここに挙げられている『模範仏和大辞典』に関しては、かつて「『模範仏和大辞典』と仏文学者」(「古本屋散策」9、『日本古書通信』二〇〇二年十二月号所収)を書いている。

 『キュリー夫人伝』 の奥付発行社は福岡清となっているが、これは福岡夫人で、『白水社80年のあゆみ』によれば、「せい」と読み、昭和六年の福岡の死の跡を継いだのである。それから経営は草野貞之に委ねられる。草野も『出版人物事典』に立項されているので、続けて引いてみる。
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 [草野貞之 くさの・ていし]一九〇〇~一九八六(明治三三~昭和六一)白水社代表。福岡県生れ。東大仏文科。一九三一年(昭和六)中大教授のまま白水社に入社。編集業務につく。三三年、フランスの作家ルナールの『にんじん』を岸田国士の名訳で出版、翌年『にんじん』の映画が上映され、同書はベストセラーとなり、経営を助けた。以来、『モンテーニュ随想録』『ルナール日記』『独和言林』『新仏和中辞典』『キュリー夫人伝』など数々の名著を出版、経営を軌道に乗せた。四三年(昭和一八)社長に就任、四五年(昭和二〇)の東京大空襲ですべてを焼失したが、戦後いち早く復興、五一年(昭和二六)には『文庫クセジュ』を創刊。著書に『エピキュウルの国』『ヴェニス物語』などがある。

 なおもう一人の白水社のキーパーソンである寺村五一に関しては、『寺村五一と白水社』(日本エディタースクール出版部)があることを付記しておこう。
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