出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話825 大西克和訳『ゴンクウルの日記』と鎌倉文庫

 辰野隆は『仏蘭西文学』の中で、『ルナアル日記』とともに、『ゴンクウルの日記』を挙げ、フランス近代文学における「骨の髄まで文学者であつた人間のドキュマンとして、罕に見る宝庫」だと述べている。
ルナアル日記 f:id:OdaMitsuo:20180908105644j:plain:h112(『ゴンクウルの日記』)

だが『ルナアル日記』と異なり、『ゴンクウルの日記』のほうは戦前に出されておらず、戦後を待たなければならなかった。しかもその版元は鎌倉文庫で、昭和二十二年から二十四年にかけて三冊が出されている。鎌倉文庫は大東亜戦争末期に鎌倉在住の作家の川端康成、高見順、中山義秀、久米正雄たちによる貸本屋として始まり、敗戦後の昭和二十年九月に出版社として発足し、彼らの作品を始めとして、多くの小説を刊行し、二十一年には文芸雑誌『人間』を創刊している。『人間』は『日本近代文学大事典』にも立項され、その豪華メンバーによる寄稿作品掲載内容が紹介されていて、三島由紀夫の実質的な戦後デビューも同誌であった。だが二十四年に鎌倉文庫は倒産し、本連載788の目黒書店へ移行している。したがって、このような鎌倉文庫の出版活動の中で、『ゴンクウルの日記』も刊行されたことになる。

 この『ゴンクウルの日記』はエドモンとジュールの兄弟が一八五一年からつけ始めたもので、私的な生活と内心の吐露というよりも、現実の観察記録と見なしていいし、ここに文学のひとつの形式として、日記を書くことが創始されたのである。永井荷風の『断腸亭日乗』にしても、江戸文人の日乗録を範としているように見えるけれど、『ゴンクウルの日記』からその発想を得たように思えてならない。
断腸亭日乗

 それはともかく、ゴンクウル兄弟は『日記』にも記されているように、一八五四年に『革命時代の社会史』などの歴史書を著わし、六〇年には小説『文士』を上梓し、六五年の『ヂェルミニイ・ラセルトゥウ』は写実主義文学の傑作とされている。それらと併行して『日記』は書かれ、弟のジュールは七〇年に亡くなるが、兄のエドモンはそれを単独で九六年まで書き継いだのである。そしてエドモンの遺産を基金として、本連載768のゴンクウル賞が創設されたことはよく知られた事柄であろう。

 手元にある鎌倉文庫の『ゴンクウルの日記』は三冊のうちの第一、二巻で、A5判上製だが、裸本で疲れが目立ち、表紙も剥がれかけている状態にある。装幀はそのまま原書を踏襲し、六隅許六かもと思われたが、吉村力郎とあった。その序文は他ならぬ辰野隆が寄せ、「これは兄弟の日記でもあれば、文壇の日記でもあり、また近代文学の日記」で、『ルナアル日記』とともに「我等の書架になくてはならぬ尚友の書」と記している。

 訳者の大西克和は「訳者の言葉」から、辰野が恩師で、この翻訳に多大の援助を受けたこと、鎌倉文庫の巌谷大四の尽力を得たことが記されている。それは巖谷が鎌倉文庫出版部長だったことによっている。続けて大西は先述の『ヂェルミニイ・ラセルトゥウ』(岩波文庫、昭和二十五年)も翻訳している。同年にはその他にも三つの訳が出され、また『売笑婦エリザ』(桜井成夫訳、岡倉書房)も刊行されている。これは『ゴンクウルの日記』の出版によって、この時期にゴングウルの小説が再発見されたことを意味している。

ヂェルミニイ・ラセルトゥウ (『ヂェルミニイ・ラセルトゥウ』)

 それらはともかく、『ゴンクウルの日記』が一八五一年十二月二日のルイ=ナポレオンのクーデタによる第二共和制の終わりから始まっているのは象徴的で、日本の敗戦後の読者にとって無縁のように思われなかったのかもしれない。もっともフランスの場合は逆コースで、ここからナポレオン三世による第二帝政が始まっていくのである。それとともにゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」も始まり、第一巻の『ルーゴン家の誕生』(伊藤桂子訳、論創社)はそのクーデタを背景としてスタートしていく。それゆえに『ゴンクウルの日記』もまた第二帝政の社会と凋落を必然的に描いていくことになる。それらは興味深く、言及したいのだが、やはりここでは『ゴンクウルの日記』の何よりの特色でもある同時代の文学者たちのポルトレを挙げるべきだろう。フランソワ・ドーデ、テオフィル・ゴーチェ、フローベール、ボードレールたちがリアルに描かれ、フランス文壇史を目撃しているような気になる。

ルーゴン家の誕生

 その中でもとりわけ印象的なのはフローベールで、ゴンクウルもそれを意識してか、フローベールに関する言及部分はとても生々しい。ゴンクウルは辻馬車でフローベールのいるクロワッセを尋ね、『ボヴァリイ夫人』『サランボオ』を書いた部屋に入る。ゴンクウルはその部屋の光景を一ページ以上にわたって描写する。東洋=オリエントの色々な古道具が飾られている。それらは緑青色の錆に覆われたエジプトの護符、原始民族の楽器、銅皿、ガラス玉の首飾り、アフリカの枕や腰掛けや俎も兼ねる台、フローベールが文鎮として使っているサムワンの洞窟から盗みとってきたミイラの二本の足。そしてゴンクウルは次のように書いている。
サランボオ

 此の室内こそは―此の人、彼の趣味、彼の才能そのものである。東洋の一つの粗い姿が充ち満ちてゐる室内、そして此処では、野蛮人の或る素地が芸術家の本性の中に顕われている。

 また続けてフローベールの母親の言葉も記している。

 母堂は吾々に、彼がルウアンで半日過して帰つて来ると、同じ場所に、同じ姿勢でぢつとしてゐるのを見る事が屢々であり、息子の余りにも動かない様子に殆んど怖ろしくなると語つた。外には絶対出ず、彼は原稿と仕事部屋の中で暮してゐる。馬に乗ることもなく、ボオトで遊ぶこともない……

 フローベールは前年に五年かけて『サランボー』を完成したばかりだったし、次の『感情教育』に取りかかろうとしていたのかもしれない。

 なお近年になって、『ゴンクウルの日記』は斎藤一郎訳で岩波文庫化されている。
ゴンクールの日記


odamitsuo.hatenablog.com
odamitsuo.hatenablog.com


[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら