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古本夜話834 博文館『樗牛全集』

 前回はふれられなかったけれど、谷沢永一は「生田長江」(『大正期の文芸評論』所収、中公文庫)において、生田の『文学入門』は「通俗的読者相手の請負仕事」で、「年少子弟に寄せる砂をかむような処世上の教訓に終わっている」と批判している。

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 しかし生田はそれをはっきり認識した上で書いているし、新潮社の明治三十年代後半から四十年代にかけての出版物は「通俗的読者相手の請負仕事」といっていい文学的啓蒙書も多うえい。前回それらの生田の著書を挙げておいたが、彼もその著者の一人として位置づけられていたことは明白である。あらためて新潮社を始めるために、それは新声社の破綻をふまえた必然的な選択であり、そのような出版によって足場を固めることで、大正時代に入っての翻訳出版を可能にしたと見なせよう。

 ただそうはいっても、『文学入門』は単なる「通俗的読者相手の請負仕事」ではなく、大正時代になって続出してくる「通俗的読者」だけでなく、「通読的著者」の出現を予感した一冊のようにも思える。夏目漱石の「序」もそのことを暗示している。それを象徴するのは大正八年にベストセラーとなった島田清次郎の『地上』で、これは生田の紹介によって、新潮社に持ちこまれた小説だったのである。
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 それだけでなく、『文学入門』の第八章は「読書の材料および方法」として、「将来文学者たらむとする人々は、如何なるものを、如何やうにして読む」べきかという具体的な読書案内になっている。この章は『文学入門』のうちの八〇ページに及び、最も長いもので、どうして谷沢が言及しなかったのかと思われる明治末の「文学者たらむとする人々」のための国文、漢文、西洋文学の読書リストを形成している。

 すべてにはふれられないので、明治以後の近代文学だけを見てみる。それは坪内逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』から始まり、夏目漱石の『吾輩は猫である』『文学論』で終わっているが、そこには尾崎紅葉、樋口一葉、高山樗牛の三人だけは全集が挙げられている。紅葉や一葉はわかるにしても、私たちの戦後世代からすると、高山樗牛に関しては『滝口入道』が思い浮かぶくらいで、釈然としないニュアンスが伴うけれど、生田は『樗牛全集』に次のような注釈を加えている。
f:id:OdaMitsuo:20180920195423j:plain:h120(『樗牛全集』)

 創作界に於ける一葉女史と相並むで、是は評論界に於ける夭折の天才。「時代管見」の頃夙く已に「わが袖の記」の如き趣味を一面に蔵して居たが、晩年病床に臥してより、著しくニイチエと日蓮上人との影響を受け、いよゝゝ其天分を発揮した。乃ち「美劇生活論」あたりから後の文章は、凡て皆詩である。

 実はこの『樗牛全集』全五巻を架蔵している。もはや二十年ほど前二なってしまうが、その造本の佇いがよかったこと、及び函なし裸本のためか、確か五千円という古書価だったので、つい購入してしまったのである。その表紙にはいずれの巻にも樗牛自筆の「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」が記されていた。あらためて取り出してみると、明治三十七年に博文館から刊行され、所持する第一巻は四十年六版との記載が奥付に見えるので、生田が『文学入門』を書いた時代には版を重ね、「夭折の天才」としての名声が保たれていたことを意味していよう。

 『博文館五十年史』を確認してみると、明治三十五年のところに、「樗牛、高山林次郎氏逝く」とあり、その経歴も記されていた。明治四年山形県鶴岡町生まれ、二十七年二高を経て、東京帝大哲学科で美学を専攻し、読売新聞懸賞で、小説『滝口入道』による第一等当選となり、文名を馳せる。二十九年卒業後、二高教授となったが、三十年博文館に入り、主として『太陽』の文芸時評の筆を執り、二十七歳から三十二歳までの六年間において、「早くも天下第一の評論家たる盛名を博した」。そのかたわらで、大学院にも籍を置き、日本美術研究で、文学博士の学位を取得したが、病を得て、三十二歳で逝去とあった。

 その翌年の項には「樗牛会創立」と「『樗牛全集』出版」が設けられ、「昨年死去せる高山樗牛の為に、遺稿を出版し、且つ樗牛の事績を永遠に伝へんが為に、旧友相謀り、此年樗牛会を起した」とある。主唱者は姉崎正治、桑木厳翼、登張竹風、笹川臨風などで、「樗牛の遺稿を編輯し、『樗牛全集』第一巻を丗七年二月に本館より発刊し、続いて第二巻、第三巻出る毎に、益々其の声価を高めた」とされる。それで姉崎が編輯者となっているとわかる。

 しかし『樗牛全集』第五巻に関しては、『博文館五十年史』で取り上げられていないので、付け加えておくべきだろう。当初全四巻として発表されていたが、書簡などが大量に見つかったこともあり、そこに『滝口入道』も加えられ、第五巻の「想華及び消息」が編まれたのであろう。ただ第五巻で留意すべきは「発兌元」が博文館と春陽堂となっていることで、これは『滝口入道』が明治二十七年に春陽堂から出版され、著作権が春陽堂にあったために、この巻は共同出版というかたちをとったことになる。

 それに加えて、第五巻には生田が『文学入門』で言及した「わが袖の記」が収録されていて、樗牛の抒情詩人的「趣味」をうかがわせていて興味深い。ここに見られる清水への愛着から、樗牛の墓地がその龍華寺に設けられ、また銅像も建てられ、戦前に清水市の屈指の新名所となった事情が判明するのである。


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