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古本夜話853 新潮社『文章倶楽部』とアジール

 前々回『若き剣士物語』の森本岩夫が新潮社の『文章倶楽部』の記者だったことを既述しておいた。
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  『文章倶楽部』は『新潮社七十年』においても、「日本にただひとつの文章雑誌として新潮社より刊行され、文章研究者の手引たると共に新文芸入門者の伴侶たることを期した」との『日本文学大辞典』(新潮社、昭和七年)の斎藤昌三による解題が引かれている。だがここではやはり『日本近代文学大事典』を見てみる。
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  「文章倶楽部」 ぶんしょうクラブ 文芸雑誌、投書雑誌。大正五・五~昭和四・四。通巻一五六冊。大正文壇のなかにおける商業文芸雑誌「新潮」の地位上昇、文芸出版社としての新潮社の隆盛にあわせて、全国の年少の文芸愛好家を対象にして創刊された啓蒙的文芸投書雑誌。編集者兼発行者は、佐藤義亮、実質的な編集の中心となってこれを推進したのは加藤武雄である。創刊号は、約八〇ページ、定価は一〇銭。最初の数号は、(中略)二、三の短編小説のほかに、「文章」に関する記事を満載、また文壇の動向、小説の作法、文学史的知識、文士の生活に関する物語を適時適切に興味深く提出、さらに小品、詩、歌、俳句、書簡文などの投稿記事を巧みに編集し、号を追うにしたがって多くの読者に喜び迎えられた。今日よりみれば、ここに掲載された作品よりも、当時の文壇の雰囲気をヴィヴィドに伝えた読物が資料としてきわめて役立つ。(後略)

 これは立項の三分の一ほどで、その後は特色ある各号や執筆者たちの紹介なので、必要ならば、直接当たってほしい。

 これも偶然だが、『文章倶楽部』を二冊入手したばかりなのである。それらは大正七年十二月号と同八年二月号で、森本が現役の記者を務めていたと思われる。いずれも森本の名前は目次に記されていないけれど、後者には「文章倶楽部記者」として森本巌夫著『新聞記者となるには?』の一ページ広告が掲載されているからである。それには「国民新聞社長」徳富蘇峰と「時事新報社会部長」千葉亀雄が「序」を寄せ、キャッチコピーは次のようなものだ。「新聞記者たり雑誌記者たらんとする人は速かに本書を看よ。本書は全然実際の調査を基礎とし事実上の研究に拠りて如何にせば新聞記者たり雑誌記者たるを得る乎の実際方法を詳細に説き明快に叙せるもの。大志ある青年諸君の必読す可き快著也」。

 『新潮社七十年』の「刊行図書年表」を確認してみると、確かに大正七年の掉尾の一冊として「?」は付せられていないが、『新聞記者になるには』が挙げられていた。現在ぺりかん社から就職ガイドシリーズとして「なるにはブックス」が出されているけれど、その発祥がこの森本の一冊だったと見なしてもかまわないだろう。

 大正時代を通じて新潮社が発展の一途をたどったように、講談社からは『少年倶楽部』『キング』、改造社からは『改造』が創刊され、菊池寛の『文藝春秋』も出され、『週刊朝日』や『サンデー毎日』といった週刊誌もスタートし、『大阪毎日新聞』や『大阪朝日新聞』はそれぞれ百万部を突破するに至っていた。いってみれば、新しい職業としての「新聞雑誌記者」時代が訪れていたのである。それとともに大衆文学、児童文学も含めた「文学者」の時代も同様で、それは昭和初期の円本時代へと結実していく。

 そのような時代の水先案内人として、『文章倶楽部』は存在したように思われる。しかもそれは都市の学生層というよりも、地方の正規の学歴を有さない多くの優秀な少年たちへの文学と文壇知識、出版情報を提供し、文芸書出版市場を形成する一助となったのではないだろうか。その市場が円本として出現後、『文章倶楽部』が休刊となったのはその役割を終えたからだとも見なせる。

 それならば、森本の記者としての役割はということになるが、所謂「訪問記者」として、目次に名を連ねている文学者たちを訪問し、話を聞き、記事としてまとめる仕事だったと考えられる。そのような記者としての修業を経て、後に作家としてデビューさせる。それが新潮社特有の文学者育成プログラムと化していたし、加藤武雄や中村武羅夫にしても、同様の道をたどっている。そのような新潮社こそは創業者の佐藤義亮にとってもそうだったように、単なる出版社というよりも、ひとつの大学、もしくは文学共和国にして、正規の学歴を有さない地方文学少年たちのアジールだったと見なすべきではないだろうか。


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