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古本夜話854 鎌倉文庫『人間』と木村徳三

 本連載825などの鎌倉文庫の文芸雑誌『人間』の一冊が出てきたので、これも書いておきたい。

 『人間』『日本近代文学大事典』にほぼ一ページにわたって立項されているように、戦後の雑誌として、思想と文芸、新人と旧人、海外文学なども包含した多角的編集によって、終刊が惜しまれたとされる。
 
 昭和二十一年一月から二十六年にかけて、全六十八冊、別冊三冊が出され、その内容明細は『同大事典』に詳しく紹介されている。また編集長を務めた木村徳三の『文芸編集者その跫音』(TBSブリタニカ、後に『文芸編集者の戦中戦後』として大空社)には創刊号と最終号の目次の収録もあるし、木村のまさに戦中戦後の「文芸編集者」の奇跡ともなっているので、まずそれをたどってみる。
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 京都生まれの木村は三高、東京帝大仏文科を経て、昭和十二年に改造社に入社する。同仏文科からは前々年に福岡孝成、前年には大森直道が入っていて、そうしたシフトによって、本連載799の『フロオベエル全集』の企画が成立したと推測される。出版部に配属されると、そこには『木佐木日記』(現代ジャーナリズム出版会)の木佐木勝、沖縄文化研究家の比嘉春潮、中国文学者の増田渉がいた。編集部には『新万葉集』に歌人の大橋松年、大悟法利雄、『文芸」に小川五郎(高杉一郎)、『俳句研究』に石橋貞吉(山本健吉)、『短歌研究』に寺尾博(寺岡輝夫)、『改造』に先の大森や若槻繁たちがいた。

 昭和十三年に木村は小川に誘われ、『文芸』編集部に移り、文芸雑誌編集者生活を始めることになる。そのスタッフは小川と桔梗五郎と新参の木村で、ふたりの先輩を見ならい、編集者の仕事を覚えていった。戦後になって、小川は高杉一郎として『極光のかげに』を書き、木村を通じて昭和二十五年に『人間』に連載し、大きな反響を呼び、目黒書店から単行本化された。だが桔梗のほうは敗戦直後にルソン島で戦病死してしまった。

 少し時代が飛んでしまったが、昭和十九年に改造社は解散命令を受け、『文芸』は河出書房に譲渡されることになった。そこで木村は作家の庄野誠一が養徳社の東京支社責任者だったので、その推薦で京都に戻り、京都支社企画編集長に就任した。養徳社は奈良の天理事報社や京都の甲鳥書林などが企業の整理によって統合されたもので、これらの出版社の出版物と統合事情は拙稿「甲鳥書林と養徳社」(『古本探究Ⅱ』所収)を参照されたい。そして丹波市本社で敗戦を迎え、九月になって、川端康成から「シユツパンジギヨウニサンカクサレタシ」という電報を受け取った。『文芸』時代に川端と相性が良く、川端は十九年の養徳社設立パーティに参加し、京都に滞在した際に、木村は会っていたのである。
古本探究2

 木村はすし詰めの列車で夜を明かし、鎌倉の川端家に向かった。川端たちが蔵書を持ち寄り、鎌倉文庫という貸本屋を始めると、大同製紙社長の橋本作雄が紙と資本もあるので、共同での出版事業を申し出て、出版社の鎌倉文庫の設立の運びとなった。社長は久米正雄、役員は川端、高見順、中山義秀たちで、大同製紙からは営業、経理担当役員として岡澤一夫が加わり、まず『人間』という雑誌を創刊する。そこで川端はいった。「『人間』はあなたの好きなように編集してください」と。それを受けて、木村は書いている。

 自分に任された雑誌を、どういう内容の雑誌にすればいいのか、これはおのずと決まっている。私には文芸雑誌以外にできるはずがないし、興味もなかった。とすれば、私はあらためて編集方針に思いをこらしたり考えあぐねることはほとんどなかった。過去六年間にわたる『文芸』編集の経験を通じて、いつしか私の脳裏には望ましい文芸雑誌のヴィジョンが出来上がっていたからだ。それは基本的には『文芸』の小川五郎氏から踏襲したものであり、その上に私の志向を加味し、結実させることなのである。端的に言うなら、文壇的な文芸雑誌でなく、文芸的総合雑誌ともいうべき雑誌であった。一般総合雑誌から政治、経済、法律、科学の綿を落して、文学を中心に思想、芸術の域を総合した新しい雑誌―つまり新聞の文化・学芸欄の結晶に近い一種の文化雑誌を作りたかったのだ。若気の至りと言うべきか、若さの特権とたとえるべきか、私は迷わなかった。自分が思い描くヴィジョンの実現に邁進すること以外に念頭になかったのだ。

 ここで述べられている「文芸的総合雑誌」というコンセプトを表象するようにして、手元にある『人間』の昭和二十一年十月号も刊行されたのである。創刊号は二万五千部、第二号五万部、第三号は七万部とたちまち売り切れ、そのブームは一年近くも続いたとあるので、この第十号もそのような勢いの中で出されていたのだろう。
f:id:OdaMitsuo:20181206173949j:plain:h120(昭和二十一年十月号)

 全目次を掲載することはできないが、「編輯後記」には「本号の欣び」として、「正宗白鳥氏の評論、谷崎潤一郎氏の日記、釈迢空氏の詩集、と三大家の作品を同時に獲たこと」と記されているが、これらはそれぞれ「気力の喪失」、「熱海、魚崎、東京」、「近代悲傷集」を指している。それらに加えて、トオマス・マンの「ドンキオホテとともにアメリカに渡る」(高橋義孝訳)、アンドレ・マルロウ「希望」(小松清、姫田嘉男訳)が収録され、また「小説月評」として、中山義秀が永井荷風「問わずがたり」(『展望』七月号)、三島由紀夫が武田泰淳「才子佳人」(『人間』七月号)、平野謙が坂口安吾「白痴」(『新潮』六月号)などに関して書いている。

 しかもこのような「文芸的総合雑誌」としての『人間』は、昭和二十に年に入っての紙の統制により、それまでの一四〇ページ、もしくは一五〇ページが、五月号から六四ページに激減し、発表しきれない小説などは別冊のかたちで刊行するようになった。それとともに大同製紙の資本金引き揚げにより、鎌倉文庫の経営状態は急速に悪化し、「紙屋と文士が寄り合ってどうなるものか」という時期が到来したのである。『人間』も目黒書店へと売られることになり、鎌倉文庫の『人間』は終わりを告げたのである。

f:id:OdaMitsuo:20181206175548j:plain:h120(昭和二十六年四月、目黒書店版)


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