出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話856 横光利一『夜の靴』

 前回、鎌倉文庫の『人間』に橋本英吉の小説が連載されていたことに加え、彼が横光利一のところに出入りし、その影響を受けていたことを既述しておいた。これは別の機会とも考えていたが、鎌倉文庫と横光といえば、生前の最後の著書は鎌倉文庫から出された『夜の靴』なので、続けてここで取り上げておいたほうがいいだろう。
f:id:OdaMitsuo:20181208110902j:plain:h120

 川端康成は本連載796でふれた細川書店版の横光の『寝園』(昭和二十五年)の「あとがき」を、「横光利一君は昭和二十二年十二月三十日午後四時十三分に死んだ」と書き出している。『夜の靴』の奥付は二十二年十一月二十五日初版発行との記載で、横光は最後の著書の上梓を見て亡くなったことになる。手元にあるのは四六判上製だが、疲れた裸本で、二五〇ページに及ぶ用紙は戦後の紙不足を伝え、薄く上質ではない。『寝園』が昭和二十五年刊行とはいえ、細川書店らしき菊判上製、函入、造本や活字の美しさと対照的だ。それは戦前の栄光に包まれた横光の凋落を伝えているかのようだ。
f:id:OdaMitsuo:20181208234530j:plain:h110

 それでもわずかに救われるのは、題簽は横光自身によるもので、このタイトルが指月禅師の「木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰」からとられていると示されていることだ。この『夜の靴』は横光が夫人の郷里に近い山形の農村の疎開先での、昭和二十年八月から十二月にかけての敗戦日記と見なせよう。だがこれらは横光の「あとがき」によれば、それぞれ「夏臘日記」(『思索』)、「木臘日記」「秋の日」(『新潮』)、「雨過日記」(『人間』)として発表したもので、「短篇の集合」ゆえもあって、「全篇を夜の靴として長篇とした」と述べられている。

 そこには敗戦が横光にもたらした心的現象の揺らめきの表出をうかがわせているし、それは戦後の始まりをも透視しようとする意志もどうようである。八月末と思われる日から引いてみる。

 おそらく以後進駐軍が何をどのようにしようとも、日本人は柔軟にこれにつき随つてゆくことだろう。思い残すことのない静かな心で、次ぎの何かを待つてゐる。それが罰であらうと何人であらうと、まだ見たことのないものに胸とどろかせ、自分の運命をさへ忘れてゐる。この強い日本を負かしたものは、いつたい、いかなるやつかと。これを汚なさ、無気力さといふわけにはいかぬ。道義地に落ちたりといふべきものでもない。しかし、戦争で過誤を重ね、戦後は戦後でまた重ねる、さういう重たい真ん中を何ものかが通つていくのもまた事実だ。それは分らぬものだが、たしかに誰もの胸中を透つていく明るさは、敗戦してみて分るつた意想外の驚愕であらう。それにしても人の後から考へたことすべて間違ひだと思ふ苦しさからは、まだ容易に抜けきれるものでもない。

 ここに敗戦の中での錯乱を伴うひとつの思考パターンが記されているように思える。

 本連載854の木村徳三は『文芸編集者その跫音』所収の「横光利一」の項で、戦後に「雨過日記」の原稿をもらうために、横光家を訪れ、常時訪問者が絶えなかった戦前とまったく変わってしまい、いつも空家のようで客もいなかったことに愕然としたと述べ、続けている。
f:id:OdaMitsuo:20181206164712j:plain:h120

 戦前末期の横光さんの国粋主義的傾向に対する批判御集中的あらわれだった。戦前の文壇の第一人者だっただけに、殊更に戦後ジャーナリズムの風当りは激しかったのだ。大正末期以来横光が果たした大きな文学史的枠割を無視し、その燦然たる業績を黙殺するばかりか、戦争中の作品傾向を顰蹙、憫笑する作家、評論家が横行し、少し前まで長篇「旅愁」に感激した読者もそれを口にしなくなっていた。変革期の非情があらためて痛感させられた。

 しかし本連載でずっと見てきたように、誰が横光を批判することができようか、ましてどのような「作家・評論家」にその資格があるというのか。そうした横光の敗戦状況下において、彼を支えたのは川端であり、鎌倉文庫から刊行される横光の『紋章』の印税前金の三千円を十一月に送っている。それが敗戦以来の横光への最後の入金だった。

 木村も横光亡き後の川端の悲嘆にふれ、横光の死に捧げた弔文の名文に感動したこと、そのために『人間』に掲載したことにふれ、さらにその全文を引用している。また木村は最後の力作「微笑」を受け取り、これが「戦時中の横光文学の残照ともいうべき小説」だったが、そのままでは当時の占領下の検閲を通るはずもなかったので、数カ所削除し、『人間』の昭和二十三年新年号に掲載したと述べている。これは未読だけれど、河出書房版『横光利一全集』で、どのような作品で、どのような削除がほどこされたのかを確認してみたいと思う。
横光利一全集

 またこれは意外だったけれど、戦時下にあって、横光の近傍には本連載146などの桜沢如一がいたようだ。横光の妻が桜沢の愛読者として語られているが、横光自身も信奉者であるかのような言及がなされている。


odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

odamitsuo.hatenablog.com

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら