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古本夜話858 扶桑書房と永井荷風『勲章』

 本連載856で、横光利一の戦後の遺作ともいうべき『夜の靴』を取り上げたので、永井荷風の戦後の出版にもふれておきたい。それは昭和二十二年に扶桑書房から刊行の小説・随筆集『勲章』が手元にあるからだ。
勲章 (『勲章』)

 戦後を迎えて、荷風は扶桑書房から単行本を続けて出している。扶桑書房は中野区野方町を住所とし、発行者は清水嘉蔵で、おそらく戦後になって雨後の筍のように簇生した出版社と見なせよう。荷風以外の単行本は見ていないので、清水は戦前も出版社に関係していた荷風文学の信奉者だったと思われる。ちなみに山田朝一『荷風書誌』(出版ニュース社)により、扶桑書房から出された荷風の著作をリストアップしてみる。
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1『冬の蠅』   昭和二十年十一月
2『すみだ川』  昭和二十一年四月
3『問はずがたり』    〃  七月
4『罹災日録』  昭和二十二年一月
5『夏姿』       〃  三月
6『勲章』       〃  五月
7『荷風日暦』上下     〃  六月

f:id:OdaMitsuo:20181215221022j:plain:h110(『問はずがたり』)罹災目録 (『罹災日録』)

 これらの上梓からわかるように、扶桑書房は敗戦直後の出版業界の混乱の中にあて、二年にも充たない間に、他社の戦前の再版も含めてだが、七点八冊を刊行したことになる。しかも6に収録の「勲章」や「亜米利加の思い出」、4の『罹災日録』、7の『荷風日暦』などは新生社の『新生』、3の『問はずがたり』は筑摩書房の『展望』に掲載されたものであり、それらを扶桑書房が単行本化できたのは、この時代に荷風の信頼を得ていたこと、及び特異な当時の出版状況が反映されているはずだ。

 それらをたどるために、戦後の『断腸亭日乗』(『荷風全集』第二十四巻、岩波書店)を繙いてみる。すると昭和二十年十一月廿六日のところに、「午後扶桑書房主人来り、随筆冬の蠅を重印したとて金五千円を置きて去る」とあり、これが扶桑書房の初出であろう。しかし『冬の蠅』『荷風書誌』によれば、「一一月一五日」発行とあるので、すでに荷風の了解を得ずに「重印」し、その印税として五千円を届けたと解釈することもできる。

 もちろん戦後を迎え、荷風を訪ねてきたのは扶桑書房だけでなく、中央公論社、筑摩書房、新生社、鎌倉文庫も同様であり、荷風は扶桑書房来訪前の十一月十六日付で、これらの四社から収入が「〆金三萬参千百四拾九円」だと書きつけている。昭和二十年になると、これらの版元の人々以上に、「扶桑書房主人」が頻出し、新円、米国製食料品、白米などをもたらしていて、荷風の話し相手、側近のような関係になっているとわかる。

 昭和二十二年一月には、荷風は扶桑書房主人から「余か往年戯に作りし春本襖の下張」の「秘密出版」の話を聞かされ、「此事若し露見せば筆禍吾身に到るや知る可からず。憂ふべきなり」で、「憂慮眠るを得ず身心共に疲労す」という状態になる。そして市川警察署に事情を話し、「秘密出版」を防止せんとする一方で、扶桑書房主人にも「秘密出版」を内偵させていたらしく、その一味が判明し、その交渉を彼にまかせている。そして一週間後に「扶桑氏来り猪場秘密出版の事余の身には禍なかるべき由を告ぐ。初めて安眠を得たり」と記すに至る。扶桑書房の清水は荷風の「憂ふべき」問題の解決一助にもなっていたのである。

 その後も相変わらず、扶桑書房主人の来訪は続いているのだが、六月になって、印税未払分らしい「扶桑書房勘定覚書」が書かれ、さらに十月に入ると、再び「同覚書」の記載があり、それによれば、『勲章』初版は一万二千部とされている。そして十一月には「扶桑書房本年六月以後の印材を支払はざるにつき催促状を郵送す」る事態となる。それから十二月に「扶桑書房主人来り印税金約束手形にて支払ひたしと言ひて遂に現金の支払をなさず」とある。それで終わったわけではない。昭和二十二年十二月卅一日には「本年は実に凶年となりき」と記され、「年末に至りて扶桑書房のために十六万円の印税金を踏み倒さる。而して枯れ果てたる老躯の猶死せざる。是亦最大の不幸なるべし」と慨嘆している。翌年早々にも「兎に角扶桑書房ほど不届至極の出版商はなし」と書きつけているが、それでも手形は不渡りにならなかったようだ。

 これらの体験をふまえ、荷風は昭和二十四年の『文藝春秋』十一月号に、「出版屋惣まくり」(『荷風全集』第十七巻所収)を発表し、明治末期からの「文学書類を出版する本屋」に関して書いている。それらは博文館、春陽堂、新声社=新潮社から始まり、冨山房や岩波書店を経て、戦後にも言及している。

 戦争後は新しい出版屋が数知れず出来ました。一しきり新生社の雑誌に寄稿したのは文壇に関係のない方面から紹介されたからです。然し誤植が多いので段々いやになつて書かなくなつたのです。鎌倉文庫は初に川端さんが来ての話だつたから単行本の出版を承諾したのです。然し印税の支払になると現金の中へ第二封鎖の小切手をまぜて寄越すやうな事をするので其後は用心して一切関係しない事にしてゐます。今日までの多年の経験から考へて見ると、出版商と出版の話をするには直悦に応接するのは大いに損です。文学も芸術も商品に下落してしまひ、自分も印税でおまんまを食ふやうになつたら法律に明い代理人を頼んで出版の掛合をして貰ふのが一番良いと思ひます。

 これが文学者荷風が「今日までの多年の経験から」見た出版エコノミストの視点であり、第二の敗戦の只中にある現在の出版業界においても、何が起きているかはいうまでもあるまい。

 なお新生社と青山虎之助に関しては本連載465、荷風とコラボレーションした籾山書店とのことは同219を参照されたい。


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